奥付を見ると、2020年12月10日発行とあります。
『コロナ後の教育へ オックスフォードからの提言』 苅谷剛彦著(2020) 中公新書ラクレ---から大幅に引用しますね。
-----------引用開始(強調BLOG主)
英国では、大学の経済的貢献の実績を明示し、それをもとに帰納型思考(事実の積み上げによる判断)を通じ、だから大学への支出増が必要だと訴える。

それに対して日本の政策提言は、大学の貢献度への否定的判断(「危機的状況」にある)を前提に、だから改革が必要だと主張する。

しかも現状の否定的認識の裏返しで、大学が育成してこなかったグローバル人材をこれから生み出すととが改革とされる。

ところが、そのような判断の根拠となる証拠は一切示されない。

印象論で紡ぎ出されたイメージらしきものをもとにした主張にとどまる。

そして、そこからの演繹型思考(抽象的理想からの推論)で、グローバル人材育成(≒世界ランキングに10校)という政策課題が出される。

帰納型と演繹型これは本書で繰り返し注目するキーワードの一つである。

この論法の違いは、英国の大学が経済的に多大な貢献をしているのに対し、日本はそうではない、といった事実レベルの違いの単なる反映ではない。

日本の政策文書には、判断の根拠の提示も、事実から帰納的に政策を考えた痕跡も見られないからだ。

英国では過去の実績をもとに、その延長線上で大学の存在理由を主張する論法が通用する。

大学への社会のリスペクトが残っているからだ。

プラスの実績(=事実)から帰納された主張は、政府の補助金増額を目指すと同時に、社会に対しても大学への投資がプラスの成果を生み出すことを印象づける。

いわば、「大学性善説」に立つ前向きの議論だ。

それに対し、日本で大学改革を主導する政府の前提は、「大学性悪説」と言える。

大学教育が欠落させてきた欠点をあるべき理想(グローバル人材育成)から照らし出すという論法で改革の目標(理想)が考えられる。

それゆえ改革論議は、これまでの大学教育を否定的に見ることから出発する。

その裏返しとして、抽象的理想から演繹した発想で、目標とそれを実現する手段が考えられる。

だが、この論法では抽象度を中途半端に保ったままで、目的も手段も具体的に示すことはできない。

たとえば、英語で教える授業を増やすことが、グローバル人材育成につながると改革の数値目標に掘えられた。

だが、英語力の低い日本人の学生と教師が英語で授業をやっても、質の高い教育にはならない。

それでランキングの順位が上がるわけがない。

(エセ)演繹的=抽象的にしか考えられなかったための、目標と手段のちぐはぐさ(実現性欠如)の一例である。

後ろ向きの改革論議は、性悪説に依拠する一面的な大学観と実現性の乏しい政策を生み出す演繹型思考が主導してきた。

しかし「危機的状況」と政府から烙印を押された大学に、誰が進んで資金を提供するだろう。

政府の補助金が減額される中で、実現性の乏しい改革を進めれば進めるほど改革は形骸化し、大学人には徒労感が募る。

その結果、社会から大学へのリスペクトも支援も得られない。

たとえば、国際貢献やビジネスの世界で実際に通用してきたグローバル人材とは、具体的にどのような資質や能力を備えた人たちか。

その資質や能力はどこでどのように獲得されたのか。

そのような人材は今後どれだけ必要なのか。

これらを抽象的にではなく、実績から帰納的に積み上げていく。

その中で日本の大学が実際に果たしてきた貢献を、プラス面もマイナス面も含めて憶測を交えずに評価する。

後ろ向きに働く歯車を逆転させ、大学が社会からの信頼を回復するには、世界ランキングのような外部の参照点ではなく、自らに正対する日本の大学像の構築が俟たれるのだ。

日本に大学をつくって150年近くになる。

そろそろ自分たちの地に足を着けた改革論議が必要だ。

大学性悪説をはじめとした「神話」に支えられた、その場限りの印象論とエセ演繹型思考に奉づく上からの改革に右往左往しないためには、足場を自ら固めていくしか発展の可能性も抵抗の手立てもない。

『コロナ後の教育へ オックスフォードからの提言』 苅谷剛彦著(2020) 中公新書ラクレ より
----------引用終了
ここを読んでいて、以前、松岡亮二先生の著書を思い出しました。
そこでは、
日本の教育改革のやりっぱなしをさして、

さながら、テストの解答用紙を返却され点数だけ一瞥して不機嫌になった中学生が、何がどのように間違っていたのかを確認もせずにゴミ箱に捨てるようなものである。

と、切って捨てていました(この日のブログ参照)。
次のような(成人の学力水準に関する)指摘についても、あたしゃ、関心の埒外だったのか、全然知りませんでした。そして、吃驚!だったのです。
----------引用開始(強調BLOG主)
演繹型思考による教育改革の議論において、帰納型思考はほとんど重視されない。

たとえば、OECD(経済協力開発機構)が11年に実施した国際成人力調査(PIAA)では、先進国の16~65歳の成人を対象に、学校などで学んだ知識を、職場や日常などの実生活でどれだけ役立てるスキルとして持っているかをテストしている。

まさに、活用できる知識やスキルの習熟度を測定する調査である。

結果によれば、読解力も数的思考力も、日本の成人の平均点は第1位であった。

平均だけでなく、習熟度レベル上位の割合も日本の成人は最も多く、レベル下位の割合は小さい。

これらの日本人の年長者のほとんどが、従前の教育政策が否定的に見てきた、暗記型や受験教育、あるいは画一教育と見なされた学校教育の経験者である。

それなのに、なぜ日本人の習熟度は高いのか。

これらの結果をもとに、帰納型思考を通じて教育政策を立てようという発想は、日本の教育行政にはない。

あるいは、これからはこれまで以上に変化の激しくなる時代(新型コロナ感染後の世界?)だから、今にもまして「生涯にわたって能動的(アクティブ)に学び続ける」資質や能力の育成が重要だというのだろう。

だが、そこでいう資質や能力も、演繹型思考の枠を出ない。

その中身も、それが具体的にどう育成されるかも、曖昧なままだ。

学習指導要領やその解説書をどんなに詳しく読んでも腋に落ちる答えは見つからない。

エセ演繹型思考に慣れ親しんだ頭でないと、わかったつもりになれないのだろう。

いや、予定調和の(仲間内で通じる)思考様式の輸・和に加わらないかぎり、腋に落ちないのかもしれない。

それが、演繹型思考に慣れ親しんだ言説生産の特徴である。

だから理解できない人は、輸・和から外れる。

外れるのがいやなら、わかったつもりになって(ふりをして)輪・和にとどまることが「正しい」選択となる。

そして、「周知・徹底」の対象となり、受け身にとどまる現場にとっては、「周知・徹底」の如何にかかわらず、指導要領準拠の教科書やアクティブ・ラーニングを導く教材会社のワークブックを使うことが、輸・和にとどまることになる。

それが実際にどのような成果をあげたか・あげないかは、これまで同様、帰納型思考の対象とはならない(PDCAのCは帰納ではなく演繹型思考回路で働くチェックだ)。

実行を阻む原因も理解されない。

「反省」も、エセ演繹型思考の枠内にとどまる。

それらを「主体的」にやってのけるところに、批判的思考の育成・発揮を最小限にした日本の教育(界)がある。

本章の冒頭で触れた私の驚きは、その点に由来する。

輪・和(予定調和の秩序)を乱さない、見事な「主体性」をつくり上げたものだ。

教育関係者の資質や能力を含めた、日本の教育の成果なのかもしれない。

日本の教育の将来像は、こうした思考の習性を、実証と帰納型思考を通じて捉え直すところからしか、生産的には展望できないだろう。

とりわけ、新型コロナウイルス感染拡大の経験を経た後の世界では、事実に基づく実態の把握が何よりも求められる。

今までのようなエセ演繹型思考による教育政策の限界を、身を以て知る必要があるということだ。
----------引用終了
同様のことは、やはり松岡亮二先生も、指摘していました(1年前のこの本・『教育論の新常識 格差・学力・政策・未来』 松岡亮二編(2021) 中公新書ラクレで)。
コロナ禍がもたらした(もたらしている)教育現場での実態、気になります(だからって、私には何もできませんが(_ _))。

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今日の南アルプス(↓11:00撮影)。
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今日のストームグラス(↓)。
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