加齢に対して抗うことにどんな意味があるのか、私にはわかりません。
「アンチエイジング」
今の日本でこの言葉が語られるとき、「資本主義の臭い」がプンプンします。
ホームページのアドワーズ(検索連動型広告)では、モロに登場してきますしねぇ(↓)。
「邪魔な広告だなぁ。」
と思っていたところ、小池龍之介氏(異色のお坊さん)の次のような文を発見。
-----------------以下引用(強調はBLOG主)
「年齢よりも若々しい」などという、相対的に過ぎないものに、自我アイデンティティの拠り所を見出してしまうと、それはいつか必ずや、失わねばならなくなる。
そして、拠り所を失うとき、苦しみが一挙に襲いかかってくることでしよう。
これまでも別の形で述べてきたことながら、人生の最終時期を、とても不満で惨めに過ごさねばならないような洗脳が、この国を覆っているのです。
うがった見方をいたしますと、高齢化が進むなかで、お金を(若い人と比べて)たくさん持っている高齢者を誘惑して、各種消費へと取り立てるためにも、この洗脳は重要であるに違いありません。
消費といえば、ふと思い当たりますのは、お金と支配欲の関係です。
お金を使うと、ヒトやモノを自分の支配下ないし影響化に置いた気分が生まれるため、脳内に快楽が発生するものです。
老いても盛んに快楽を追い求めよ、とは老いても消費の欲を追い続けよ、という市場の命令なのかもしれません。
かくして、老いた体にドギツい快楽の刺激を与え続けるハメになっている、高齢化社会。
結果として、いよいよ死の病にでもかかるまで、誰もがずーっと興奮しっぱなしで、昔の、敬われていた老人が持っていた落ち着きや思慮深さが失われることとなります。
市場の命令に背いて、老いては快楽を去ってゆくこと。
それが心の安らぎを得る秘訣であるうえに、副作用としましては、若い人たちにはない平静さという独自のアドバンテージを、"長老"が取り戻すことにもつながるのです。
-----------------引用終了
「アンチ」のつかない「エイジング」を他者目線からではなく、いかに自分の格率で納得しておくることができるのかどうか、それが今の自分にとっての関心事です。
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今日の南アルプス(↓11:00撮影)。
一昨日の雪が麓から南アルプスにかけて白くグラデーションがかかっています(↓昨日の13:28撮影)。