山中千尋のCOOLTALK その28 より(「JAZZ JAPAN」2014.6月号(通巻第46号))
毎回楽しみにしている山中千尋さんのエッセイ、今回は特に面白うございました。
-----------------以下引用(強調BLOG主)
「アーティストにとって職人並みの技術を持っていることはプラスではあるが、作品がそれに依存していると看破されることは、明らかにマイナスなのである。」
と大野左紀子さんは書きます。
技術を前提とする演奏と、表現内容をはるかに重要視する現代美術の大きな違いはここにあるのかもしれません。
「修練を真面目に積んだことによって職人並みの腕になり、自分のテクニックにうっとりする人が出てくるのである。
そういう人がやたら技巧に走って、仕上がりがきれいなだけで中身のあまりない作品を作って満足していると、先生や先輩に一言嫌みを言われる。
「おまえ,職人になりたいのか?」
(大野左紀子著『アーティスト症候群』より)
演奏の世界では多かれ少なかれ誰もが“演奏職人”であることが求められます。
技術のないところに表現は有り得ない。
演奏という特殊技術を持つから演奏家。
職人的な演奏技術は音楽的とか芸術的とポジティブに評されることが多いのです。
(中略)
音楽性や芸術性を理解されるには受け手のほうに相応の知識と訓練そして才能が必要ですが、技術は万人がアクセスできるもの。
マシュー・バーニーのインスタレーションは見る人を選ぶだろうけれど、浅田真央のフイギュアスケートの演技は誰もが楽しめるのと同じ原理です。
(現代美術界でスーパースターのマシュー・バーニーには、ビョークという最強の理解者もおり、完全な勝ち組セレブなのですが)逆手に取れば楽器を“弾く”技術さえあれば,才能がそれほどなくても音楽家として生きていけるのです。
『アーティスト症候群』には目からウロコが落ちる言葉がぎっしりつまっていました。
かつて言葉にできないものであるアートを表現にしていた大野さんはアーティストであることをやめ、言葉という“誰にでも届くもの”を武器に選んだのです。
そうして語るアート論は「こうなったらモヤモヤとひっかかるすべてを言語化してやるのだ」という決意と開き直りの姿勢がとにかく清々しい。
「私達一人ひとりが自分の視点で自由にものを見ているように思っているが、実はそこに幾重もの社会的文化的なフィルターがかかっている。
アートにできることは,そのフィルターのいくつかを取り除くことによって、あるいは別の強力なフィルターをかけることによって、慣れ親しんだ世界を初めて見るようなものに変えることなのだ。」
もちろん、それは音楽にだってできるはず。私はそう信じて音楽を続けようと元気をいただいたのでした。
-----------------引用終了
先々週は、飯田でクラフトフェア、先週は松本でクラフトフェア、そして明日明後日は駒ヶ根でくらふてぃあ杜の市。
と、ここ毎週末長野県内では「作家さん」が集まって「市」を開催しています。
で、
どーしてもクラフト作品と作家性、芸術作品と芸術家、民芸と職人---それぞれの関係性が気になってしまうのです。
たぶん、クラフト作品の「作家さん」は、
芸術作品>クラフト作品>民芸>工業製品
といったあたりに自分の「作品」を位置づけたいのかなぁ、などと下衆の勘繰りをしてしまう私。
「使ってナンボ」
の世界にいる私からしたら「使えないクラフト作品」は、ただの塊(だから芸術作品はそれソートーの場所で鑑賞することが多い。決して、所有しようなんて思いません)。
それ故、当店では「工業製品」が殆どです。
それでもじゅうぶん、作家性を感じるものがあります。唯一無二のモノではなく再現性を可能にした工業Product。これも美しいと思うのでした。
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今日の南アルプス(↓11:00撮影)。昨日はお隣の松川町で雹(ひょう)が降ったんだそうな。
今日のストームグラス(↓)。窓側(明るい方)に結晶がより発達しています。
先日で神戸・昭栄堂のクッキーサービスは終了しました。