M木さんが読んでいて、「これ、読みました?」と聞かれ、
「あ~、気になってたのにスルーしちゃってました。」
タイトルの講義が書籍になったのは2011年。これです(↓)。

『中国化する日本』 與那覇潤著(2011) 文藝春秋刊
既に文庫本化もされています。
「専門家の間ではもう常識なのに一般の歴史ファンにはなかなか広まっていかない新しい歴史像を、読者のみなさんにわかりやすくお届けすることを目的にしています。」
というとおり、「高校レベルの常識的な日本史の知識さえあれば十分」楽しむことができます。
印象的な、そして刺激的であり且つ挑発的な文が並んでいて、思わず「そーそー!(膝を叩く)」ということしきり(そこそこ知識があれば、心地よいんです)。
オモシロイ部分を引用しますね。
-----------------以下引用
宋という王朝は、唐までの中国とはまったく異なるシステムを導入した、文字通り「画期的」な王朝であり、さらにその宋で導入された社会のしくみが、中国でも、そして(日本以外の)全世界でも、現在に至るまで続いているとさえいえるのです。
(中略)
逆にいうと、「日本が唐までは中国に学んでいたのに、宋からはあまり学ばなかった」というのは、なんとなく自明視してしまってよいことではなく、それ自体が大事件なのです。
つまり、中国では宋という時代から「近世」に入り、はっきりいえばその後、中国社会の基本的な構造は、今日の人民共和国に至っても、ほとんどなにも変わっていない。
しかし、唐までは中国を意識的に模倣していたはずの日本は、なぜかこの宋朝以降の中国の「近世」については受け入れず、鎌倉から戦国に至る中世の動乱のあいだ延々とすったもんだした挙句に、江戸時代という中国とはまったく別の「近世」を迎えることになる。
そして、近代というのは「近世の後半期」ですから、中国では宋朝で作られた社会のしくみが今日まで続いているように、日本でも江戸時代のそれが現在まで続いてきた(いわば、長い江戸時代)。
ところが、今や様々な理由によって、その日本独自の「近世」である江戸時代のやり方が終焉を迎えた結果、日本社会がついに宋朝以降の「中国の近世」と同じような状態に移行--「中国化」しつつある、というのが、本書のタイトルの本当の意味になります。
(中略)
たとえていうと、こういう感じだと思います。
これまで近世日本はずっと世界標準にあえて与せず、独白規格のガラパゴス・ケータイ(幕藩体制)でやってきたのですが、どうも最近、動作も鈍いし調子がおかしい。
修理を依頼したところ、オペレーター(儒者)が「どうせならこの際、グローバル・スタンダード(近世中国)にあわせちゃった方が何かと便利ですよ」とかいうものだから、スマホに買い換えないまま無理やりケータイにアンドロイドやiOS(儒教)をインストールしたら、画面がバクってひとしきり暴走した後、動かなくなってしまった---。
-----------------引用終了
「今」が大きなカーブを曲がっているという自覚で見ると(カーブそのものの r=半径 が大きいため、日常でそれを感じることが少ないけど、数年前と「今」を比較したら、
「そういえば・・・・・・!」って思うこと、多いでしょ。
それがなんなのかというと、與那覇氏は「中国化」と称しているわけです。
示唆に富む文が多いのですが、私は次の文を以下の如く置き換えてみました。
「江戸時代的な日本社会の欠点はどこにあるか。それは正しい意味での「封建遺制」、すなわち自給自足的な思考によって社会のあり方を捉え、他人の得は自分の損と思い込んでしまう百姓根性にあるのではないか。」
自給自足的な思考 → 他から途絶しているために地域完結している世界観
社会のあり方 → 「ムラ」のヒエラルキー
他人の得は自分の損 → 「ヨソモノ」の成功はオモシロクナイ
百姓根性 → 二言目には「絆」を持ち出す五人組DNA
なるほど、そーゆーことだったのか!(池上彰ふう)
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今日の南アルプス(↓11:00撮影)。天候は午後にかけて回復に向かうとのこと。

今日のストームグラス(↓)。

結晶のアップ(↓)。

先日、お客様から朴葉寿司をいただきました(↓)。ごちそうさまでした。

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