『いま、地方で生きるということ』 西村佳哲著(2011) ミシマ社刊

著者の西村さんが東日本大震災直後の5月に東北(河北・南三陸・登米・釜石・遠野・秋田)、九州(福岡・鹿児島・屋久島)を旅行し、各地で出会った人との対話、それを通じて感じたことをまとめた本。
最後のほうに、「お金が要る、という重力」と題した節があります。
-------------以下引用
「生きてゆくためにお金が要る度合い」は、都市に近づくほど強く、遠ざかるほど弱い。
生存に欠かせない水・食糧・衛生環境などの環境資源を都市はシステムとして構築・提供していて、それらへのアクセスにはある程度のお金が要る。
しかし遠ざかればその重力は弱くなる。
田舎のお爺ちゃんお婆ちゃんは、口を揃えて「昔はこんなにお金を使わなかった」と言う。
別のシステムを持っていたし、互いの価値交換もお金以外の媒体を通じて行われていたわけだ。
都市部には地価という係数もあり、さまざまなコストに含まれながら、お金の重力をさらに強くしている。
その他にもたとえば寒冷地ではエネルギーコストが高くつくし、それは食材の生産コストにも含まれる。
局所的な公害に端を発する病気や風土病の類も、医療コストという形でその地図に変化を与える。
こうしたあらゆるコスト源を掛け合わせて「生きてゆくためにお金が要る度合い」を視覚化した日本地図のイメージが、長らく頭の中にある。
その重力分布図では、国内だとたぶん高知や宮崎や沖縄の一部で重力がもっとも弱く、生きてゆくためにお金の要る度合いが低いことを示すんじゃないか。
だからといってそこで暮らしたいか?生きてゆきたいか?というのは別の話だし、今回の原発事故によって地図はさらに複雑なものになった。
-------------引用終了
「オカネ」の尺度とは別の物差しをもっていて、まずはそっちを優先して考えてみる---ムラ社会はかつてそうだったし、それに息が詰まりそうな若い世代は、「オカネ」の尺度で測るとわかりやすい都会へと向かいました。
でも、都会で暮らすには田舎よりも生活の基礎的経費がかかる---そーゆーふーに作られているのが「都会」。
貧困率16%というニッポンでは、そーゆーふーな「都会の論理」に従って生きていくには難しい階層(下位層)が一定数のボリュームで存在しています。
だったら「オカネ」とは別の、かといってかつてのムラ社会のような共同体ではない、新しい関係性を指向する人々、確実に増えていると思う。
こーゆー人々は、住む場所は都会でも地方でもどこでもいいわけで、モノだけの「お裾分け文化」に加え、その人の持っているスキルを活かす「プロボノ」なんかは、「オカネ」の尺度とは距離を置いていると思う。
書いていて、「あれっ?」って思ったこと。
「これって、社会関係資本の有り・無しじゃん。」
新たな場所でリセットして、再スタートを切る。そーゆー場合には自力でゼロから作っていくわけだから、やりがいがありますぜo(^-^)。
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今日の南アルプス(↓11:00撮影)。

昨日、16:58撮影の南アルプス、荒川岳(左)・赤石岳(右)。

今日のストームグラス(↓)。

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