先日のおおたとしまささんの本で、懐かしい新書名が出てきました。

それが、『大衆教育社会のゆくえ』 苅谷剛彦著(1995) 中央公論新社刊(中公新書)。

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もう20年以上前の出版です(青棚に置いてあるのは、先日Amazonマーケットプレイスで購入したもの)。

当時を思い出します。

長野県では耳塚寛明論文に刺激され、「学力問題」がかまびすしい頃だったと思う。

クミアイ的には「難関大学への進学率低下という問題に矮小化すべきではない」などと主張していたような気がしますが(そんなコト言ってたら、保護者の支持なんか得られませんよ)、それからの20年を見ると長野県も「バスに乗り遅れるな」状態。

そりゃあ他県視察なんかすると、「そこまでやっているの!?」という驚きの連続でした。

できることからやりましょう---ということで、制度をいじったり(通学区制の緩和)、現場での「他県に学ぶ」実践等が、「定着」していきました。

で、そーそー

苅谷先生の著書をおおたさんが次のように要約しています。

-------------引用開始

「アメリカやイギリスでは、社会階層の低い家庭の子供がなぜ学業でも低い成果しか上げられないのかについて多くの研究が行われている。

遺伝でも経済格差でもなく、家庭文化とでも言うべきものが、その後の学校での成果に影響していることが指摘されている。

例えば使用する言葉が違う。

中流以上の家庭の子供は、普段から副詞や接続詞を適切に使い、客観的な文章を組み立てているが、労働者階級の子供は対象と自分を同一視しがちで、単純な構文しか使わない。

そのような家庭文化が学校での成果に影響を与えているというのだ。

また日本の研究でも、親の収入が高くても親の学歴が低い場合には子供が高学歴を得るとは限らず、親の経済力よりも親の学歴に相関する家庭の文化的環境が子供の成績に影響していることが指摘されている。

さらに、収入レベルが同じ家庭で子供の成績が同じであっても、学歴の高い親ほど子供により高い学歴を期待し、その期待を受けて、学歴の高い親の子供はより高い学歴を得ることも分かっている」

つまり、家庭での「当たり前」が、子供の学業での成果や学歴に影響を与えているということだ。

これと同じことが、名門校でも起きていると考えられる。

-------------引用終了

苅谷先生はSSM調査(社会階層と社会移動全国調査)の結果から分析するというもので、(まだ若かった私はこの本の中で登場する)文化資本とか社会関係資本とか、ぜ~んぜん知らずo(^-^)、その主張に目を瞠ったものです。

学歴が、実際は、特定の社会階層の再生産に寄与していることを、具体的なデータで実証していて(「あっち側」の人たちはスタート時点で「下駄」を履いている=恵まれていることを自明のこととしていること)、受験は誰にとっても平等性を担保しているかのような当時の言説とは、一線を引いています。

おおたさんの指摘する

家庭での「当たり前」が、子供の学業での成果や学歴に影響を与えている

という指摘、実は耳塚先生(現在はお茶の水女子大学副学長)も、ペアレントクラシーという言葉を「親の願望や学歴期待の大きさが、子どもの地位を左右する社会になってきているという意味」で用いています。

社会共通の「当たり前」が通用しない「格差社会・ニッポン」へ。

この20年で誰の目にも見えるような「階層社会ニッポン」、復活したんですね(戦後の高度経済成長期~1億総中流社会のほうが「特殊な時代」だったんだと思います)( ^.^)( -.-)( _ _)(x_x)。



オ・マ・ケ
おおたさんの要約で思い出した。

イギリスのサッカー選手D・ベッカムはどうして寡黙なんだろう?---という疑問に対し、話す言葉で「わかっちゃう」からなんです、という指摘をしていた人がいました。高給取りのセレブでも、階級社会のイギリスでは話せばそれだけで、「お里が知れる」---日本もそーゆーこと、あると思うんだけど。


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今日の南アルプス(↓11:00撮影)。

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今日のストームグラス(↓)。

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