日本円を表す円マーク(¥)と中国の人民元を表す表示の¥。
英語表記だと円(YEN)、元(YUAN)ですからその最初の文字に由来しているのはわかります。
日本円の由来に関しては、
-----------以下引用
有力なものとしては、以下の3つ。
【1】江戸時代まで様々な形があった貨幣をすべて「円形」に統一したため、その単位も「円」という名前になった。
【2】当時、香港の造幣局から機械を譲り受けて銀貨を製造していたが、モデルとなった香港銀貨に「圓(=円)」と表示してあり、それをまねて「円」にした。
【3】国際的に流通していた「メキシコ・ドル」が円形で、中国ではこれを「洋円」または「円銀」と呼んでいたため、その影響で日本でも「円」という名前が使われるようになった。 さらに、新しい貨幣の形を決める会議で、時の「大蔵省会計官掛」という立場にあった大隈重信が指を円形に丸め、「こうすれば誰でもお金とわかるではないか」と言って円形に反対していた人々を説得したというエピソードもあるのだとか。
----------引用終了
「取材協力:日本銀行」だそうですので、このうちのどれかか、その複合案でしょう。
中国は円形の銀貨を作るようになっったものの、円の正字である「圓(げん)」は画数が多いので、同じ読みの「元」を貨幣の総称と決めている---らしい。
で、
上記引用【2】に関して、「五代サマ」のご登場です。
-------------引用開始(長めです。強調BLOG主)
五代友厚が大隈重信と共に大阪で何をやったか。
それは造幣局の設立だ。
日本の近代貨幣制度、具体的には通貨単位「円」貨を作り上げたのは大隈重信である。
そして、彼の下で働いた五代友厚だった。
大隈重信は、会計官副知事と後に大蔵大輔として、徳川幕府時代の一〇進法ではない複雑な両・分・文の通貨制度、関東では金本位制と、関西では銀本位制(銀座)という状況を改める必要に迫られた。
通貨制度整備の陣頭指揮にあたったのが、大蔵省造幣頭となった、大隈の築地梁山泊での盟友・井上馨(2歳年上)であった。
当時、外国官権判事であった五代友厚は、長崎時代から深い付き合いのトーマス・グラバーの仲介で、香港造幣局で使われなくなっていたイギリスの造幣機械を6万両(6万ドル)で買い入れる契約を結んだ(1868年)。
この機械に刻印されていたのが中国で使われていた「圓(円)」という貨幣単位を示す漢字であり、これがそのまま明治日本の新しい貨幣単位となった。
五代友厚は造幣寮(後に造幣局)の大阪での建設が決定すると、辞職して実業界に飛び込んだ。
彼が実業の世界に入った1869年にまず作ったのが、金銀分析所であった。
五代は、この金銀分析所で明治新政府による新しい貨幣の製造に合わせて、これまでの金貨や銀貨を正貨、贋金を問わず全国から買い集め、その内容物を分析し、それぞれを融かし、純度の高い金属の塊(のべ棒)にして、造幣局に収めるという事業を行った。
これは五代の独占事業であり、巨利を得ることになった。
また、五代友厚は貴金属の確保を進めるために、既に見つかっていた全国の金・銀・銅の鉱山経営に自ら乗り出した。
それらの管理をするために、大阪に本部機能を持つ弘成館を設立した。
五代は日本の新しい通貨、円の原料を押さえてしまった。
これで巨万の富を得て、大阪での地歩を固めた。
ちなみに、五代の屋敷(大邸宅)があった場所は、大阪の中心地そのものの中之島で、現在は日本銀行大阪支店である。
『蕃書調所の研究』 副島隆彦他著(2016) 成甲書房刊 より
-------------引用終了
歴史を振り返ると、日本は中国から様々なものを学び、吸収してきました。
明治以降の近代化にあたって、「お金」という国家の基礎を茄子いやもとい、成すその造幣機械が「お古」で、その単位(円)も「流用」だったとは・・・・・・。
あまり知りたくない話でしょうね(日本マンセーの人たちには)。
それにしても、今も昔も・・・と思い至ることがあります。
プラットフォームを作った人は、丸儲け。
現在のパソコンやスマホのOSしかり、Amazonしかり、ネット通販での楽天しかり、そーゆーふーに儲かるように作り込んであるわけですけど、150年前のニッポンでも、それも国家の貨幣制度という究極のプラットフォームを作り上げた人は、巨万の富を築くことができたわけか。
こーゆーのは卑近な例でも、けっこうありますよ。「ここじゃぁ、こーなってる。」というムラ社会のしくみ、とか。
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今日の南アルプス(↓11:00撮影)。午後は天気、回復です。

今日のストームグラス(↓)。

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