昨日まで承天閣美術館で開かれていた伊藤若冲展【後期】(こちら)。

相国寺境内を抜けた先にあります(↓)。

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地下鉄今出川駅下車、ここから冷泉家住宅 → 同志社 → 相国寺 へと向かいます。

美術館受付を済ませ、その脇に置いてあるディスプレイで伊藤若冲の番組を見ていたときのこと。

若冲と同時代人である絵師の皆さんの生没年を横棒グラフで示した画面が映りました。

それが、私にとっては意外だったのです(名前は知っていても、それぞれバラバラにアタマの引き出しに入っています(x_x))。

こんな感じです(↓)。

伊藤若冲   --------------------------------------------------------------------------
(1716-1800)

円山応挙              -----------------------------------------------------------------
(1733-1795)

与謝蕪村   -------------------------------------------------------------------
(1716-1784)

池大雅            -----------------------------------------------------------
(1723-1776)

曾我蕭白         -----------------------------------------------------------
(1730-1781)

教科書的には・・・・(電子辞書で山川「日本史用語集」をチェック → 教科書記載数を見てみました(^_^)。

応挙11、   蕪村11、 大雅11、 若冲1、 蕭白0---という結果。

蕪村なんかは、私は俳人というとらえ方だったけど、いやいやどうして、文人画も描く立派な絵師。

そんな中、若冲に触れている教科書が一冊あるみたいです(へぇ~)。

皆さん、京都で活躍していた絵師ですから、交流はあったのか? あちこち検索してみると、こーゆーふーな話を発見(↓)。

-------------引用開始

若冲は錦小路の西側に住んでいました。

錦小路の土地の証文の写しの文書が残っており、いくつか所有地があったようです。

明治以降は絶記となっていますが、代々引き継がれていました。

応挙は四条通りを南に行ったところに住んでいました。

蕪村は四条と烏丸通りの交差点から30メートル行ったところに石碑が残っています。

歩いて10〜20分の距離にたくさんの絵師が暮らしていました。

こちら、より。

-------------引用終了

こーゆーところが、「みやこ」である所以ですね。

「蟹蛙図」(円山応挙・与謝蕪村合作)、「ちいもはゝも」円山応挙・与謝蕪村合作---というふーに、当時(250年前)からコラボ作品もあったみたいです。

「いなか」で孤高を持する生き方もありますが、「みやこ」でこそ自分が「活きる」生き方もあるんだと思います(自分を活かすマーケットを知っているということです)。


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今日の南アルプス(↓11:00撮影)。飯田の今日の予想最高気温は31℃。

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今日のストームグラス(↓)。サスガに今日は、結晶も少なめです。

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