先日、1冊100円で販売されていた本を購入してきました(108円ではないので、ブック●フじゃないです。また、この週末に伊那市高遠で開催されていたブックフェスでもありません。行ってないし・・・・)。

本のタイトル、

『私の「貧乏物語」』 岩波書店編集部編(2016) 岩波書店刊

各界の36人による各人各様の「貧乏物語」を綴ったエッセイ集です。

そんな中に、安彦良和さんの文もあって、 「私が貧乏だったころ」という題。

一部引用します。

-------------引用開始(強調BLOG主)

スポーツでも仕事でも金儲けでも、競争というのは本来したい人がすればいいので、「普通でいいよ」というような人はそういう修羅場の外に護られていればいい。

ところが、「さあ競争だ、キミだって勝てる!」とそそのかされると人はその気になる。

そして競争に強い貪欲な人の餌食になる。

競争の好きな人は相手が欲しいから人を競争に誘う。

「夢はかなうよ」と、甘い言葉で。

しかし万人がかなえられるような「夢」は元来夢ではないから、大方の人には夢破れる結末が待っている。

競争の結果夢をかなえるヒーローや成功者は世間の誇りだからそれはそれでいい。

問題は「競争原理」という妖しげな原理がもたらす夢の後始末である。

今人々を、とりわけ若い人達を襲っている「貧困」感覚があるとしたら、その実体はこの放置された夢ゴミではないかと思う。

「親が金持ちだったら東大に行けた」とか、「第一志望の会社に入れていれば幸せだったはず」とか「名門校で部活をやっていればスポーツヒーローになれたのに」とかいう類で、そういう機会を若者から奪っている社会にこそ問題がある、というような訳知り顔の対若者同情論には、だから僕は与しない。

-------------引用終了

右肩上がりでパイがジャンジャンと大きくなっていく時代ならまだしも、今や「削りあい」の時代です。それは世代間であったり、地域間であったり、サバイバルのためだったら否応なく巻き込まれていく---そーゆーシュリンクするニッポンなんですから。

東京で生活するには生きていくためにベースとなる出費が高く設定されており、何をするにも基本、「オカネ」換算で物事が進行していきます。

そーゆーのに違和感や「ついて行けない」感を感じ、オルタナティブなライフスタイルが地方にはけっこう多くあることを知って、「卒・東京」をする(≒競争以外の物差しを持つ)若者が増えてきている気もします(3.11以降は特に)。

次世代は彼らのモノなのですから、それをスポイルするような先行世代の皆様方、もっと他の方法もあろうかと存じますぜ。

イノベーションを担うのも、彼ら(の一部)です。リタイア層からは、そうそう生まれません。


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今日の南アルプス(↓11:00撮影)。

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今日のストームグラス(↓)。

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