liddell coffee house リデルコーヒーハウス

【大切なお知らせ】2022年1月2日から、 次のように店の方針を変更しています。「 3名様以上の人数でのご来店は、お断りしています。」 つまり1~2人で、ご来店ください---ということです(3人以上で座れるお席はございません(_ _))。実際のところ、今は90%くらいが「おひとり様」のお客様です。

タグ:メンタルヘルス

高速バスを利用していると、途中、トイレ休憩のためSAPAで短時間停車しますよね。

運転手が、「出発時間は○時●分です。」

と告げ、乗客の皆さんはそれを確認して、各自バスから下車していきます。

今はフロントガラスのところに出発時間を「手めくり時計表示」で知らせてくれているバスもあります(親切ですネ)。

私は毎度、下車してトイレへ行くことにしています。SAPAの売り場もチラ見するにはしますが、だいたい出発時間の7~8分前までには戻ってきます。

というのも、

運転手が、「出発時間は○時●分です。」と告げる言葉の含意として、

「あくまでここでの停車時間は、トイレ休憩のためのものです。高速道路では渋滞や突発的な事故等により定時運行が難しいため、皆さんが集合したら、出発します。」

---こんな意味合いを込めて言っている。私はそーゆーふーに解釈しているからです(これって、突飛な解釈じゃないと思うんですけど)。

運転手によっては、出発時間5分前に乗車人数を確認して(野鳥の会の人が持ってるあのカウンターでカチカチやったりして)、全員が揃っていると、

「ご協力ありがとうございます。お揃いですので、出発いたします。」

と、アナウンスしてバスがスタートします。

で、

先日のこと(漸く今日の本題o(^-^))。

私の席と通路を挟んだ反対側にお座りの女性、2回あったトイレ休憩で2回とも出発時間ギリギリにお戻りでした。

女性の場合、週末の混んでいる時間帯ではSAPAのトイレに行列ができることもあるので、

【今だけ男】

になって、男子トイレの「大」を利用するオバチャンが出現!---そんな話もありますが・・・・・・。

この日は、平日。トイレが混んでいるというわけではありません。

その女性以外は皆さん2回とも、余裕をもって5分前には集合されていました。例によって、運転手の人も人数確認をその時間にしています。

で、彼女だけいない。

彼女にしてみたら、ちゃんと出発時間までに戻ってきているわけだから、「あ~、間に合った! 良かった!」と、思っているでしょう。

きっと自分に瑕疵はないと思っているはずです。実際、「出発時間」を遅らせたわけではないので、特別問題はありません。

でも、私はなんだかモヤモヤしたのですね。

この正体は何だろうと暫く考え、結論は、

この女性は空気が読めない。運転手の言う出発時間にさえ間に合えばいいと思っている。その言葉に含まれたメッセージが理解できないんだ。ましてや、たまたま同じバスに乗車した人を「待たせている」なんてことには思いも及ばない。言葉として発せられた内容をそのまま、文字として書かれた表現をそのままにしか、理解できないのではないだろうか。そう、行間なんて読めない---そーゆー系の人だとラベリングしてみると、合点がいくのです。

最近は、そーゆー系シンドロームを、「発達障害」として括っています。

このBLOGでも過去、発達障害に関しては触れています(こちらこちら)。というのも、その当時からそーゆー系と思われる方への対応を当店でもしなければならない事態を迎えているからなのです(そーゆーふーに考えると、合点がいくことも屡々です)。

入口に「お店からのお願い」を箇条書きにして明文化しておけば、そーゆー系の人も、読みさえすれば理解できるハズ---と思ったので、項目の追加が続きました。あの掲示は、「コーヒー飲みに来たら、この店は音がうるさくて、『おい、もっと音、低くしてくれや』。」という方への予防線ではないのです。

実はひとつ、計算外だったことがあって、

開店当初より「赤棚」に、誕生日辞典とか性格・相性、占い、血液型取説とか、自己啓発関係本とか、そんなどーでもいいような、店主の私にとっては、ゼンゼン関心も無ければ、中身を読んだこともないような書籍を置いていました。

計算としては、カップルが来店した時、会話が途切れた際に、多少は話のネタになるだろう----そんな親心(^_^)からだったのです。

でも、この書籍群に反応したのは、カップルではなくそーゆー系の人でした(現在はもう、置いてありません。今はそっち系では、小林正親さんの本が2冊あるだけです(_ _))。


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今日の南アルプス(↓11:00撮影)。

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今日のストームグラス(↓)。

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オ・マ・ケ(↓三日坊主めくりカレンダー)。お父さんの滑舌が悪いと、こーゆーふーに聞こえるのかも(^_^)。

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先日、高速バスに乗車中、渋滞に巻き込まれました。

ただ、完全にクルマが停止するほどではなく、のろのろと前進する、そんな渋滞です。

時間帯は夕方、暗くなってきたころで、たまたま私の乗車していたバスは追い越し車線を走行中、私の座席は「A」の位置(進路方向に向かって4列シートのいちばん左側)。

窓から隣りの車線の運転席が丸見えなんです。

「!?」

暗い車内で光っているモノといえば、バックライトに照らされているインパネとカーナビのディスプレイ。

まぁ、これくらいはすぐにわかったんですが、それとは別の位置に輝度が遥かに明るいディスプレイが光っているクルマが何台も・・・・・・。






















はい、スマホの画面です。

助手席の人が操作しているというわけではなく、ドライバー本人がいじってます、何台ものクルマで。

太ももの上で操作していたり、シフトノブの位置でいじっていたり、ハンドルよりも上の位置で操作していたり(そーすると、視点移動が少なくてすむということか、工夫してるなあo(^-^)---ここで感心してどーする!?)。

人によって様々。

えっ、渋滞中はスマホ操作していいんでしたっけ?

それで、皆さん「渋滞に巻き込まれたから、連絡しなくっちゃ!」

ということでもないらしいのです。連絡だけだったら、すぐ終わるはずなのに、もうそーゆーレベルではない。

もう、時間があればいじっていないと不安---そーゆー依存症レベルです。

中には猛者((*゜∀゜))もいて、iPadサイズの画面でゲームやってるし・・・・・・( ^.^)( -.-)( _ _)(x_x)。

そーいえば、

「追突事故の約3割は渋滞中に発生しているんです。」

って、アイサイトの開発者の人もTVCMで言ってましたね。あのスマホ操作車はみんな「衝突対応センサー+回避装置」が付いているということか?

こーゆー輩が追突事故を起こすんでしょうけれど、前のクルマにとっては堪ったモンじゃない。自車の前方に関しては、私も取り付けたドライブレコーダーがあるけれど、オカマ掘られる事故に関しては、ねぇ。 よけられないし。


何時間もず~~っとスマホを握りしめて、いじり続けている人を見ると、

「あぁ~、この人、病気なんだな。」

と思うこともしばしば。


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今日の南アルプス(↓11:00撮影)。

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今日のストームグラス(↓)。

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オ・マ・ケ(↓)。1年前の今日、新幹線のニセモノに乗車していたのかo(^-^)。

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そーいえば、「本当のしんかんせん」に乗ったのって、いつだろう? 

先月、Yahoo!ニュースに「大人の発達障害」に関しての記事が転載されました。

で、

その元記事はNIKKEI STYLEのこちら

以前にこのBLOGで憶測で文を書いたモノとしては、関心を惹く内容でした。

発達障害を抱える当人の苦しみを理解し、それを支える周囲の配慮---それは十分わかります。

周囲に配慮された環境を用意し、ダイバーシティー経営を目指す---それもわかります。

ただ、思うことは、どーしても焦点が当人にだけ当たりがちで、配慮しながら一緒に仕事をするフツーの人たちのメンタルに思いが至っていないということ。

「配慮された環境」であるという認識がない発達障害の人の天真爛漫さの影に、メンタルをやられている周囲のフツーの人が一定数いるであろうということ。

職場であっても、地域であっても、濃密な関係の中で逃げ場のない状況だったら、その構成員へと社会的「伝染」が起こってくるように思うのです。

そーゆーときには、逃げだすことがひとつの解決策。そーもいかないときは、自分なりの気分転換・ストレス発散の道筋を持ってないと、「ヤラレ」てしまいます( ^.^)( -.-)( _ _)(x_x)。


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今日の南アルプス(↓11:00撮影)。昨日とは打って変わり、快晴。

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今日のストームグラス(↓)。

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オ・マ・ケ(↓)。薬やサプリのボトル、瓶に入っているこのビニール(↓)。

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開封したら取り出して、元には戻さずに捨ててね---ということになっているんですが、くしゃくしゃでボトルの上部に詰め込まれているため、取り出す時、錠剤が一緒にくしゃくしゃの「襞」に入っていることに気づかず、「ポイッ!」っと錠剤を放り投げちゃうこと、ありませんか?

私は、あります。

それが、悔しい('-'*)。---最近は細心の注意を払って取りだしていますo(^-^)。

昨日のYahoo!JAPANのトップページ・タブ「ニュース」に「大人の発達障害」なる文字が登場しました。

そのリンク先は、毎日新聞のこの記事(こちら)。

ADHD(注意欠陥多動性障害)のチェックリストが掲載されています。

こーゆーのって、ひとつふたつくらいは、フツーの人でも当てはまります(私は電気を点けっぱなしにしがちだし、単純なルーティーンワークには馴染めないほうで、どちらかというと工夫したがるタイプだし・・・・・(^_^))。

で、思い出した。

暫く前に見た、「東大はアスペルガーの学生多し」という趣旨のTwitter投稿を記事にしたもの(こちら)。

それによれば、大学当局もそれ(アスペが多いこと)を承知していて、

「バックアップ体制といい、心理士と医師の充実っぷりといい」---当の学生たちにも認識されているらしい。

さらに、

2010年には、発達障害の学生をサポートする専門機関である「コミュニケーション・サポートルーム」を立ち上げ---とのこと。


さて、ここから先は私の仮説(憶測)です。

先ず始めに、「大人の発達障害」については、こちら や こちら を参照下さい。

ADHDやアスペルガー症候群だけが、大人の発達障害ではありません(念のため)。

小・中学、高校と地元で育ち、発達障害による少々おかしなところがあっても、それを受け入れてくれる度量が地元にはあり、普通学級でもなんとかなりました。

(日本ではおおよそ1/15人の割合らしい---というデータあり。アメリカでは13~15%前後らしい--1/7~8人の割合---というデータをどっかで見ました。無責任でスミマセン(_ _)。)

高校までの段階で発達障害に気づいていると、それ以降の選択が内向き=地元志向になります。「お外」では通用しないのが体得的に分かるのだと思います。

大学へと進学して、それまでよりも自由な環境に身を置いた学生時代は、特別、支障なく過ごすことができました。

しかし、

就職し、社会生活が始まると、会社を中心とした複雑な人間関係の中で、生きにくさを感じるようになります。

自分を受け入れてくれていた学生時代の友人たちも、それぞれ別々のところへ就職し、自分と同じ会社にはいません。

組織になじめない、指示された仕事ができない・・・・・等々が積み重なり、最初に就職した会社を退社、次に運良く就職した会社でも上手くいきません。

結局、地元から離れた場所(都会)での就職は失敗だと思うようになり、辞めて地元へ帰ってきます。

地元には親族もおり、ローカル経済は地縁血縁で回っている共同体のようなものですから、そーゆー発達障害の人材でも、なんとかなります(地元は、やさしいのです--優しい・易しい--どちらも当てはまります)。

かくして、(有為な人財の)人口減少(流出)+少子・高齢化の地方(地元) が進行し、絶対数ではなく、「率」でみた場合、発達障害の大人が高い比率で存在することになるのです。

(私は医療関係者ではありませんし、お役所でそーゆーふーな統計を管轄している人間でもありませんから、あくまで当地で感じる「空気」みたいなモンからの印象です---そもそもそんなデータ、公開されんでしょ)。


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今日の南アルプス(↓11:00撮影)。

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今日のストームグラス(↓)。

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今のおじいさん・おばあさん世代(特に後期高齢者層)は、兄弟・姉妹の数が多く、まだ日本が貧しかった時代を実体験として知っています。

たくさんいる兄弟・姉妹の中には、長男の一郎さんの次は、次男だと思ったら名前が三郎さんという例もあり、夭折してしまったきょうだいがいたことから、そーゆーファミリー・ヒストリーを知らないと、「?」ということもあります。

-------------引用開始

きょうだいが多かった時代には、同じように育てても異なる性格を持つようになるのは常識でした。

なかにはドロップアウトしてしまう子どももいて、あれこれ手をつくしてもどうにもならないと、「あの子はしかたがない」と運命として受け入れましたが、これは「子どもは親の思いどおりに育たない」と知っていたからでしょう。

ところが社会がゆたかになって子どもの数が減ると、子育ては「ぜったいに失敗してはならないプロジェクト」になりました。

その責任は母親に負わされるため、プレッシャーはなみたいていはではありません。

-------------引用終了

これは、橘玲さんが、人気女優の息子が強姦致傷容疑で逮捕された事件について記したコラムの一部です。

このコラムを読んで数日後、信毎WEBで、

「県内ニート7500人 15年調査までの5年間で1・5倍」

の見出し。

暫くすると消えちゃうんで、以下引用しますね。

-------------引用開始

 2015年国勢調査に基づく県内の15〜34歳のニートの人数(速報値)は7500人で、10年の1・5倍となったことが29日、県のまとめで分かった。特に20〜24歳は2200人でほぼ倍増し、若い世代の就業や進学支援があらためて課題として浮かんだ。

 就職・就学せず、職業訓練も受けていない人をニートと呼ぶ。県は、15年国勢調査で県内の15〜34歳の非労働力人口から、家事や通学をしている人を引きニートの数を算出。20〜24歳が2200人と最も多く、25〜29歳、30〜34歳は各1900人だった。

 一方、10年国勢調査でニートは4859人で、20〜24歳、25〜29歳、30〜34歳の各年代とも約1300人だった。

 県労働雇用課は、増加理由は「さまざまな要因があり、分析は難しい」としている。

 29日の県会9月定例会一般質問で県内のニートの人数を説明した県の石原秀樹産業労働部長は、県は若者の就職を支援する施設「ジョブカフェ信州」で、個々の悩みへの助言から職業紹介などに対応しているとし、「若者の自立を促したい」とした。

 ニートや引きこもりといった若者の自立支援施設を運営する認定NPO法人「侍学園スクオーラ・今人(いまじん)」(上田市)の長岡秀貴理事長(43)は「就職氷河期を経験した親世代は子どもに多くを求めず、働かないことにあきらめや理解を示す家庭が増えている」と分析。「若者と寝食を共にして向き合うなど、かつて地域や家庭が担ってきた環境を各地につくって自立させることが必要。国や県が政策として取り組んでほしい」とした。 
(9月30日)

-------------引用終了

ニートの家族、とくに親御さんの心労たるや、これまでもそーだったでしょうし、そしてこれからも、いつまで続くのだろうという、漠たる将来への不安、お察しいたします(橘さんの言うような、子育ては「ぜったいに失敗してはならないプロジェクト」という共通認識に立てば、です)。

ヒキコモリドットコム(現役の引きこもりによるWEB)→ 脱出へのヒントあり!?

引きこもり解消ガイド(サイト名:引きこもり・不登校・ニート【部屋から出てきてくれる魔法の言葉】)


おじいさん・おばあさん世代が若者だった頃は、今のニートと称される若者は、

「そんなヤツはおらんかったぞぉ~」

でオワリでしょう。

でも、たくさんいたきょうだいの中には、「!?」というふーな、理解を超えた人もいたはずで、家庭や地域コミュニティから飛び出してしまったのではないでしょうか。

昔も今も一定割合で「そーゆー人」の発生確率はあるわけで(ゼロにはなりません)、今では出生前診断でわかる疾病確率とは別に、昔は社会や家庭の中で「そーゆー人」を包摂していたんでしょう。

ただ、今は、長岡さんの言う「かつて地域や家庭が担ってきた環境」が変わってしまっているので、これまでとはまた別の「仕組み」が必要になってきている---ということでしょうか。


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今日の南アルプス(↓11:00撮影)。

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今日のストームグラス(↓)。

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先月号の「日経WOMAN」別冊で、「小池龍之介さんにWOMAN読者が聞く『折れない心の作り方』」という相談企画がありました。

そもそも、なんで当店に開店以来ず~~~~~っとこの雑誌が置いてあるのか?

たぶん、並んでいる雑誌の中で、手に取られることが一番少ないと思われる日経WOMAN。

でも定期購読をやめない理由、それは店主からのメッセージですo(^-^)。

「こーゆー雑誌の想定読者にこそ、来店してほしい」

という。

(でも、どーやらそーゆー層は当地にはいないらしい---ということも、うすうすわかってきました。)

で、

そーそー、小池龍之介さんにWOMAN読者が聞く「折れない心の作り方」。

読者からの相談に彼は、次のように答えています。

-------------引用開始

実は、現代社会において、きちんと大人になり切れている人というのは、極めてまれなのです。

世の中には「子どもみたいな大人」がたくさん存在していて、自分の権力や影響力を誇示して感情を満たすケースが非常に多い。

例えば、会社組織に当てはめて考えてみると、上司と部下の関係がそうですね。

上司に対して「上の立場の人間なのだから、自分よりも大人で人格者であるべき」などと考えてしまいがちですが、実際はそうとは限りません。

理不尽な要求をすることで、自分の支配を確かめようとする上司もいる。

この支配欲こそ、子どもの証しだといえますね。

上司がムカつくことを言ってきたときは、「大人になり切れていない人だから、しょうがないな」と考えてみれば、心にショックが生じづらいと思います。

「相手はこうあるべき」というフィルターをいったん取り払ってみる。

そうすれば、違った受け止め方ができるようになりますよ。

人は皆、「自分が大切」というナルシシズムを抱えながら生きています。

落ち込みや嫉妬、怒りなどは、人間なら誰もが持っている自然な感情。

苦しんでしまう自分を否定しないで、ありのままに受け入れてあげることが、折れない心で穏やかに生きていくために大切です。

-------------引用終了

ストレスの大半は人間関係のこと---という話もありますし、以前地元の情報誌に載っていたこーゆーことも(↓)。

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であるならば、こそ。

相手は変えられないけれど、自分は自分で変えていくことができるわけだし(でも、上手につきあいたいですね、ストレスと)。

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今日の南アルプス(↓11:00撮影)。快晴です。

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今日のストームグラス(↓)。こんなに晴れてるのに、結晶はたくさん。

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現在、山梨県立図書館館長をなさっている、作家の阿刀田高さん。

日本ペンクラブ会長までなさった方ですので、さぞや・・・・・・と思ったら、意外なことを仰っておられました。それがまさに「悟り」とでも申しましょうか。

-------------以下引用

私の場合は、20代で病気・療養という重大なマイナスを負ったわけですが、そのマイナスが自分の人生を作ったな、という気がしています。

療養生活中に、好きでよく本を読み、人生について考えました。今考えると、それが後年、生きる上で役に立ちました。

 と言いますと?

まず、そんなに満足した人生なんてそう簡単には送れるもんじゃない、人生7割の満足が得られたら、それでよしと思わねばと。

一生、この病気のハンディを背負って生きていく以上、そういう覚悟を持たないといけないと。

 7割の満足で、よしと……。

それに、療養所にいる人を見ていると、どうしても国の補助や他人の手助けを当てにするような心理に傾いていく。

しっかりと自立して、もっと前向きに生きていこうという決意が胸の中で生まれました。

 そういうお気持ちが、物書きになってから、どう生かされましたか。

6〜7割の満足でいいという気持ちはずっとありました。

ですから(1979年『来訪者』」で)日本推理作家協会賞を受賞した時、もうこれで満足と思いました。

一応、これで物書きとして評価していただいたと。その後、(1979年『ナポレオン狂』で)直木賞までいただいちゃって。

 そうすると、もっといろんな賞を取りたい、という気持ちは……。

いや、もっととは思いませんでした。

よくぞここまで来たもんだ、もって瞑すべしと。

たまたま運がよかった、人生には自分の力だけではない、いろんなものが作用しているんだなあと。

-------------引用終了

「たまたま運がよかった」というフレーズ、これ実はビジネス界でも成功された人々がよく口にする言葉なんです。

日経の「私の履歴書」で最も多く登場する言葉を調べた人がいて、その結果は、

「たまたま」・「偶然」だったんだそうな。

たまたま見ていたテレビでとか、たまたま新聞で目にしてとか、偶然、高校時代の友人と会ってとか、そーゆーことで「何か」を生み出すヒントを得るのだそうな。

これって、できすぎのようにも思えるけれど、実は、そーゆー人は「常に」課題解決に向けた問題意識を持っていて、様々な情報の中から能動的にそのためのヒントを選択している---という事なんだと思う。

「ボー」っとしている私としては、思考のあり方として、そーゆー回路を多少なりともつくっておかないといけないなぁと思った次第。

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今日の南アルプス(↓11:00撮影)。天候は午後には回復との予報。

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今日のストームグラス(↓)。

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オ・マ・ケ、三日坊主めくりカレンダー(↓o(^-^))。

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一昨日のブログ、

グローバル経済がもたらすスピードは、人間の適正スピードじゃないこと、その速度で走る続けると壊れちゃう(心身を病んじゃう)人間が発生すること、そーゆーふーな内容でした(学校現場での相似形にも言及しました)。

で、

先日読んでいた森達也さんの対談集に興味深い(オモシロイとは表現できないけれど、とても気になる)内容が載っていました。

これは “another side of war” とでも呼べそうな、私にとっては新鮮な視点です。

-------------以下引用(強調BLOG主)

 第二次大戦の後に米軍が、前線の兵士の発砲率を調べたところ、たった15パーセント前後であることが判明しました。

つまりほとんどの兵士は、前線にいながら銃を撃っていなかった。

目の前にいるのは敵だと自分に言い聞かせても、人は人を簡単には殺せない。

どうしても抑制してしまう。

でもこれでは世界最強の軍隊にはなれない。

そう考えた米軍は、その後に訓練の方法を変えました。

海兵隊などに顕著だけど、たとえば射撃の的を丸いものから人の形や顔写真にする。

こうして人を殺す感覚に馴れさせる。

その結果、ベトナム戦争では思惑どおりに発砲率が増えました。

でも、今度は別の問題が浮上します。

兵士が壊れてしまったのです。

だからベトナム戦争では、従軍して帰ってきた兵士の社会復帰が大きな問題になりました。

当時のハリウッド映画にもたくさんあります。

『ディア・ハンター』に『タクシ・ドライバー』、『ローリング・サンダー』など。

『ランボー』のパート1ではラストに、ベトナム帰還兵のシルベスター・スタローンが、殺戮衝動ばかりが突出して社会に復帰できない怒りと悲しさを激しく訴えます。

人は人を簡単には殺せない。

殺せるようにするための訓練は、最後は心を壊してしまう。

これに気づいた米軍は路線を変更します。

人を殺す実感が湧かないような戦争の方法を見いだしていった。

この時期には無人兵器の開発も始まりました。

パソコンを使ったシミュレーションのような戦争です。

司会 その路線が結実したのが湾岸戦争ですね。

モニターを見ながらマウスでクリックして、敵の基地を爆撃する。

「ゲームのような戦争」と批判されましたが、結果として湾岸戦争は、アメリカにとっては大成功でした。

 ところがイラク戦争で失敗してしまう。

占領のためにバクダッドに侵攻したからです。

再び地上戦となり、多くの兵士が精神を病んでしまい、またも社会問題になりました。

(BLOG主注:対談に参加した編集者・創価学会員) アカデミー賞を取った『ハートーロッカー』という映画を見たのですが、イラクから生きて帰ってきた兵士の静かな壊れっぷりに、壮絶さが伝わってきました。

『アは「愛国」のア』 森達也著(2014) 潮出版社刊より

-------------引用終了

脚注が付いていて、それによれば

脚注:兵士の発砲率
デーヴ・グロスマン著『戦争における「人殺し」の心理学』によると、第2次大戦における米兵の発砲率は15パーセントだったという。その後、朝鮮戦争では55パーセントに上がり、ベトナム戦争では90パーセントとなった。

だそうな。

人間が生まれもっている生理(速度であったり、人は人を簡単には殺せない本能)を破壊すれば、必ず人間のどこかが壊れるようにつくられているんでしょう、きっと。

最初からそのへんが壊れているサイコパスの人もいるんでしょうけど、あくまで例外的な存在です。

ふと、

人様の大金を預かってそれを運用しているファンドマネージャーという職種も、それに近い存在ではないか?---と思うのでした(だって、自らがマシーンに徹しないと、やっていけないでしょう。だいたいその仕事を毎日続けて、生涯の仕事にしているファンドマネージャーって、数は多くないと思う)。


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今日の南アルプス(↓11:00撮影)。夏空。

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今日のストームグラス(↓)。

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週刊文春 2014.11.27号 樋口武男の複眼対談 第50回、ゲストは外山滋比古先生。

大和ハウスの会長、樋口氏が月1回ゲストを呼んで対談するというもの。

4ページにわたるこれは「PRのページ」なんですね(ページの上部にはちゃんと(PR)と記されています)。

高校の現代文でお世話になった人も多い外山先生、1923年生まれの御年91歳。

グライダー型の人間と飛行機型の人間という喩えで、他力本願型の学習方法から自力で学ぶ学習の大切さを唱えています。

で、

話は変わって、外山先生が75歳の頃に奥様の体が不自由になって、家事ができなくなったのだそうです。

お手伝いさんを頼むのもいやだから、、よし、オレがやってみようと家事を始めてみると・・・・・・・・。

-------------以下引用(長いです。強調BLOG主)

外山 家事はダラダラやらすに、なるべく短時間にやる。

朝食は十五分でつくる。

昼食は二十分。

夕食は二、三十分。

そういうスケジュールをつくりましてね、多少、忙しいと思ったこともありますけど、そのうちに手早くすることが非常に快感になってきた。

一種のスポーツなんです。

散歩をするより料理をしているほうが、ずっと運動になりますよ。

包丁でものを刻むなんていうのは、緊張するし、力はそれほどいりませんが、これは相当な運動ですよ。

指先を使うのは手の散歩。

新しいところに行って目を喜ばせるのは目の散歩。

いい音楽を聴くのは耳の散歩。

会話を楽しむのは口の散歩。

とにかく動くところは全部動かす。

それらすべてが運動だと考えているんです。

樋口 人と会うことも大事ですな。

外山 特にあんまり親しくない人に会う必要がありますね。

家族というのはあんまり役に立たないんです。

話すこともないし、会ったって感動がない。

ところが知らない人と会えば新しい経験になって、それによって自分が多少変化する。

古くからの友人には引退してもらって、新しい友人をつくるのがいい。

そうすると緊張するじゃないですか。

絶えず新しいことに挑戦するということが大切ですね。

樋口 私は創業者から、停滞は後退やと怒られました。同じことばかりやっているやつ、進歩のないやつ、それは後退に等しいとね。

外山 八十歳になった頃の気持ちと今を較べて、やっぱり自分でも進歩したなと思うのは、あまり細かいことは考えないで、なるべく大きなこと、自分のことじゃなくて、もっと社会とか世の中とか大きなことをいろいろ考えるようになりましたね。

例えば、ある時期まではできるだけたくさんお金を蓄えておこうと思っていたのが、それは間違いじゃないかと気づいたんです。

人に迷惑がかからないように生きていくためにお金は絶対必要ですから、それは貯めるけれど、ある年齢に達して、いつ死んでもいいやという時期になって、依然としてお金をもっていることに喜びを感じるというのは、人間としてある種の迷いだと思うようになったんです。

本来はいらないじゃないですか、よけいな金は。

(中略)

外山 新しいことに挑戦するのはリスクを伴いますよね。

ところが最近の人は失敗を恐れすぎるんですよ。

本来は失敗からスタートするのが普通なのに、教育を受けた人ほど成功からスタートしようとする。

これは元来、間違いなんです。

例えば自転車に乗るときだって、はじめから乗れる人は1人もいないんです。

必ず転ぶんです。

転ぶんだけれども、やがて乗れるようになる。

自転車より前に、ヨチヨチ歩きのときに何回も何回も転んで、やがて歩けるようになる。

転んでもいいように赤ん坊は丸々太っているんだという説もあるぐらいですからね。

とにかくこの状態を忘れちゃだめだと思うんです。

まず転んで、そして歩けるようになる。

ます失敗して、その失敗を重ねて、そこからパッと成功する。

われわれは教育を受けているあいだに何となく、プラスからスタートすべきであるという考えにとらわれているんです。

プラスからプラスヘ、そんな虫のいいことを考えているようじゃだめなんです。

われに七難八苦を与えたまえ」とか、「若いときの苦労は買ってでもせよ」という言葉があるでしょ。

それは失敗経験というものがなければうまくいかないということを、昔の人はみんな生活で知っていたんです。

ところがいまは生活がない教育を受けているものだから、失敗はなるべくないほうがいいと思い込んでいる。

全然失敗しなければ、いちばん素晴らしい……これは非現実的だと思いますね。

失敗のない成功というのは大して価値がないし、次に失敗したときに立ち上がれない。

失敗経験を重ねていれば、一度失敗しても、また次に成功のチャンスがあるんです。

樋口 失敗をバネにして、飛躍せよということですな。

外山 「セレンディピティ」という発見の原理があるんです。

行きがけの駄賃のようにして生まれる発見、発明のことですが、それもだいたいミスがきっかけで発見は起こります。

いままで成功しなかった自分の人生だからこそ、これからひょっとすると素晴らしいセレンディピティが起こるかもしれない。

そういうふうに思うと、年をとるのも悪いもんじゃないなという感じです。

-------------引用終了

最後の強調部分(赤字)、御年91歳の方のお言葉と思うと、まだまだわたしなんざぁ、ひよっこですね。

著書は200冊を越え、いまも年間8~9冊のペースで執筆しているという外山先生。

矍鑠(かくしゃく)たるその理由、ちきりんさんのこの指摘(↓)にヒントがありそうです。


・大組織や、誰かの下で何十年も働く、という働き方をしていない

・通勤電車に毎日乗ったりもしてない

・好きなことを仕事にしてる


・周りと自分が違っても、全く気にせず、

・常に何かに向けて、お目々キラキラ、心ワクワク状態

・空気なんか全く読まず、言いたいことを遠慮無く口に出し、


・常に動き回ってるし、

・常に考えてる(思考停止になってない)

・結果として、いくつになっても「守り」に入らず(←老化の源)、好奇心を忘れず、「攻め」の姿勢で暮らしてる


長寿、それも健康であるためには、心の活性化と体の活性化。

前者は好奇心を持ち続けること、後者は頭を使うこと---忘れないようにします。

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今日の南アルプス(↓11:00撮影)。飯田は、雨。

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今日のストームグラス(↓)。

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平成26年版の自殺対策白書では、47都道府県別のデータを公開しています(↓)。

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山梨県が突出しているのは、「青木ヶ原樹海」があるからでしょう。

自殺にも様々なスタイルがあって、決行場所で大まかに分けると、

約50%が自宅で首吊り、薬物使用、

約40%が近場の高層ビルや線路への投身、

残りの10%弱が海や山へと出かける「出張自殺」なのだそうな。

その「出張自殺」として人気があるのが、山梨県の富士山北麓に広がる青木ヶ原樹海。

実は以前に読んだ本、『からくり民主主義』 高橋秀実著(2002)草思社刊 でのレポートに触発されて、山梨県南都留郡足和田村(現・富士河口湖町)の西湖民宿村まで伺ったことがあります。それも積雪があった2月。

民宿村から雪を踏みしめた足跡が樹海の中へと続いている・・・・・・・。

跡をたどってみました。

(以下略)







さて、

『生き心地の良い町~この自殺率の低さには理由がある』 岡檀(おか まゆみ)著(2013) 講談社刊

の中で著者は地図会社の協力を得ながら、自殺率を左右する要因を本人属性とは別に、次のように抽出します。

-----------------以下引用(強調BLOG主)

解析の結果、自殺率を高めたり低めたりするのにもっとも影響をあたえていたのは「可住地傾斜度」であり、次いで「可住地人口密度」「最深積雪量」「日照時間」「海岸部属性(海に面していること)」の順であった。

このうち可住地傾斜度と最深積雪量は、その値が大きくなるほど地域の自殺率が高くなり、その反対に、可住地人口密度と日照時間、海岸部属性については、値が大きくなるほど自殺率が低くなるという傾向を示していた。

これらの結果を総合すると、日本の自殺希少地域の多くは、「傾斜の弱い平坦な土地で、コミュニティが密集しており、気候の温暖な海沿いの地域」に属していると解釈することができる。

また、日本列島を取り巻く海洋を五つの海域に分割した場合、自殺希少地域は太平洋沿いの自治体にもっとも多く存在することがわかった。

自殺多発地域の特徴はこの逆である。

険しい山間部の過疎状態にあるコミュニティで、年間を通して気温が低く、冬季には雪が積もる地域」に多いという傾向が示されている。

自殺希少地域である海部町、自殺多発地域であるA町の地理的特性の差異は、まさにこの対比に当てはまっている。

-----------------引用終了

都道府県別のグラフでも、青森・岩手・秋田・新潟・島根等が該当しており、特に秋田は県をあげて自殺対策を推し進めてきたのは、周知の通り。

地域のコミュニティの大切さが喧伝される中、著者はその「質」にも言及しています。

それは「絆」とか「つながり」といった、もてはやされやすい言葉について、です。

-----------------以下引用(強調BLOG主)

自殺希少地域にも多発地域にも同じように「絆」や「つながり」があるのだとすれば、それらは必ずしも自殺を抑制する要素として機能していない、という理屈になる。

私は、人々が「絆」「つながり」と呼んでいるものの本質やそれに対する人々の意識に、地域によって差異があるのではないかと考え始めた。

試行錯誤しながら研究を進めた結果、自殺希少地域である海部町では、隣人とは頻繁な接触がありコミュニケーションが保たれているものの、必要十分な援助を行う以外は淡泊なつきあいが維持されている様子が窺えた。

対する自殺多発地域A町では、緊密な人間関係と相互扶助が定着しており、身内同士の結束が強い一方で、外に向かっては排他的であることがわかった。

二つのコミュニティを比較したところ、緊密な絆で結ばれたA町のほうがむしろ住民の悩みや問題が開示されにくく、援助希求(助けを求める意思や行動)が抑制されるという関係が明らかになった。

つまり、二つの地域の住民は同じように「絆」や「助け合い」という言葉を口にしていたが、その本質には大きな差異があったのである。

このことを通して私は、通説の功罪について考えるようになった。

人との絆が自殺対策における重要な鍵であるとする主張自体は、まったく間違っていない。

私自身もまた、かつてはこの通説をよく引用していた。

ただし今ふり返って思うのは、その言葉を引用するだけであたかも何かを伝えた気になって安心してしまい、思考停止してはいなかったかということである。

よりこまやかに内容を検討し、さまざまな場面に当てはめて検証していくという作業を、かつての私は怠っていた。

通説にはこれを用いる人々の思考を鈍らせるという副作用がある。

それが耳触りのよいメッセージである場合にはさらに用心すべきであることを、肝に銘じておきたいと思っている。

-----------------引用終了

いますよね、常に正論を吐いていい気になってる人。

だれもそれに異は唱えられるはずもなく、かといって状況が良くなるはずでもないのに、「それ」を言うことで何か事態が良くなっているような錯覚になって、結局、なにも改善されずじまいのコト。

いつまでたっても変わらないことと、変えるべきコトとのバランス、「不易流行」がわかっているところは、たぶんこれからも大丈夫でしょう。

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今日の南アルプス(↓11:00撮影)。

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今日のストームグラス(↓)。

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