liddell coffee house リデルコーヒーハウス

【大切なお知らせ】2022年1月2日から、 次のように店の方針を変更しています。「 3名様以上の人数でのご来店は、お断りしています。」 つまり1~2人で、ご来店ください---ということです(3人以上で座れるお席はございません(_ _))。実際のところ、今は90%くらいが「おひとり様」のお客様です。

タグ:歴史

朝日新聞デジタルを見ていたら、平成30年度 春期京都非公開文化財特別公開に関しての記事

毎年、春と秋に期間限定で非公開文化財を公開しているんですね(開催要項は、こちら)。

一覧を見ていて思うこと((゚ω゚)感覚)は、2018年になって公開されるのが「史上初」というモノが京都にはまだまだあるということと、今回は50年ぶり!?に錦の御旗が公開される---つまり、前回は明治維新100年目の時以来という、時間感覚(=歴史の重み)です。

ただ、今回は(たぶん)50年前とは違い、「官軍教育(薩長史観)」への批判もあります。

幕末に作られた錦の御旗の制作過程のアヤシサ(wikiせんせいにも記述あり)も含め、鳥羽・伏見の戦いで実際に登場し、これが掲げられたことで、薩長軍が官軍、幕府軍が朝敵となる---歴史が動いた瞬間の、そのときの「現物」に私は興味津々です。

が、

公開は5月6日までか( ^.^)( -.-)( _ _)(x_x)。大型連休中の京都、混んでるんだろうなぁ~。

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今日の南アルプス(↓11:00撮影)。天気は午後には回復の予報。

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今日のストームグラス(↓)。

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オ・マ・ケ(↓)。裏山で重力に逆らって枝を伸ばしていた木は、「藤」でした。今年、花が咲きました。

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予備校の先生は(たぶん)徒弟制度のようなアカデミズムとは舞台が違うので、そーゆー世界とは距離を置いて、著書で次のようなこともバンバンと述べられるのだと思います。

----------以下引用

・ポルトガル商人と結ぶキリシタン大名が、日本人奴隷を輸出していたこと。

・イエズス会が、スペイン国王に日本派兵を要請していたこと。

こうした事実が日本史教科書では軽視、あるいは無視されてきたのはどうしてでしょうか。

日本におけるキリシタン研究をリードしてきたのは、ラテン語の文献が読めるカトリック系の大学の研究者たちでした。

彼ら自身の多くがクリスチャンであり、キリスト教という「真理」をこの国にもたらした宣教師たちの苦難と殉教を称賛し、これを弾圧した秀吉や江戸幕府の圧制を糾弾する、という価値観に従って歴史を記述してきたからでしょう。

朝鮮出兵を行なった秀吉は、戦前の日本では「大陸雄飛の先駆者」として称賛されました。

逆に敗戦後は「侵略者」として否定的に描かれます。

戦前の歴史を全否定する歴史学者たちもまた、秀吉や徳川政権によるキリシタン弾圧を糾弾してきたのです。

こうしたイデオロギー的歴史観にとらわれない実証的な研究--たとえば高瀬弘一郎氏がラテン語の原文史料を紹介した結果、イエズス会の活動の隠された一面が少しずつ明らかになってきました。

しかし高校の日本史教科書の記述には、こうした話はまだほとんど反映されていません。

『世界史とつなげて学べ超日本史』 茂木誠著(2018) (株)KADOKAWA刊 より

----------引用終了

高校「世界史」ではスペイン、ポルトガルの中南米進出に際して宣教師がその先兵となった---とは教えても、我がニッポンにおいては、そーゆーふーな観点からではなかったような、私にはそんな印象がありました。

でもね、

「彼ら」が海外進出する際に、「ニッポンは別」的な扱いをするとも思えず・・・・・・。

「あ~、やっぱり、そーだよね」という感想。

不都合なことは、隠しておくのではなく、見たとしても見えていないことにしておく---それとは別の論理構成で史実を読み解いて、それが一定の理解を得て、普及する。

「明治維新150年」の今年、それが色んなところで話題になっていますが、「もうひとつの明治維新150年」ともいうべき裏面史にも、もっと光を当ててもいいでしょう。


で、

これとは関係ないけれど、唐突に思い出した、ICU(国際基督教大学)の【Cコード】。

確かあの大学の教員(教授・准教授・専任講師)になるためには、「クリスチャン(Christian)であること」という条件が存在するという話。

やっぱり、あった(こちら)。

私立大学ですから建学の精神がそれに反映している---そーゆーことでしょうネ。


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今日の南アルプス(↓11:00撮影)。

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今日のストームグラス(↓)。

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オ・マ・ケ(↓)。飛田さんの小松菜、大株です(^_^)。生産者によって、同じ小松菜でもその違いがわかってきました。

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8月27日はお店をお休みにして、須坂市へ行ってきました(正確に言うと須坂市のメセナホール)。

というのも第19回信州岩波講座の講座Ⅱで、内田樹さんと加藤典洋さんが講演+対談がある---という情報があったから。

内田先生の講演は2回目(前回は長野県看護大学でした)、加藤先生は初めて。

加藤先生の『戦後入門』を以前に買ってはあったものの、その厚さ(新書なのに600ページ超)にたじろぐ自分の情けなさ( ^.^)( -.-)( _ _)(x_x)。

一方、内田先生の書籍は、読みやすいということもあって、スタッキングシェルフにだいたいのものは置いてあります(^_^)。

加藤先生のお話はお客様情報により、「学者によくある話し方で、ヘタ」という通りでした(_ _)。

いくつもの流派!?のある護憲論(護憲派)が、論理的不整合を抱えながらも安倍政権の改憲に共闘していく---果たして、そーゆーことってできることなのでしょうか? これまでの護憲派の歴史から学んで、お互いが手を握ることが可能なのでしょうか?

加藤先生の演題「どんなことが起こってもこれだけは本当だ、ということ」

護憲論(護憲派)が自分たちにとっての「これだけは本当だ」と思っていることについて、それぞれがズレていたら、お互い譲らないんじゃないでしょうか? 傍から見ているとそれは教条的にも見えるんですが・・・・・・。

なんせ、1時間という講演時間の制約があったので、精緻に理路を組み立てて論を展開するというふーにはいかなかったのかも?(そのへんの行間を聴講する側が補わなくっちゃならんのかも? あたしにゃそーゆー力がない(x_x))。

10分の休憩後、内田先生の講演。

演題「『帝国』化する世界・『中世』化する世界」

「私は大風呂敷を広げて話をしたり、ものを書いたりしているんですが、どこからも反論が来ない!」

これって、言ってることが(言われた人たちからしたら)図星だからでしょ、きっと。

そーゆーときは、言われていることは否定も肯定もせず、徹底して無視する---そーゆーふーなEstablishment、多し!---そーすることで指摘されていることが、「なかったこと」にできるんです、「あっち側」の人々によって。

さて、

話の中で登場した水野和夫さんの『閉じていく帝国と逆説の21世紀経済』を既に読んでいたこともあり、日本が今後目指してはどうかというniche帝国化戦略「南北朝鮮+日本+台湾+香港+ASEAN」共同体の話も、すっと入ってきました(でも、北朝鮮はなぁ、昨日、ロケットorミサイルぶっ放したし)。

水野さんは冗談でも「日本は毎年、EUに加盟申請しなさい!」と仰ってる。その具体的な構想が東アジアから東南アジアにかけてのniche帝国化戦略。

地域帝国化は世界的に進行中で、EUなんかはまさに“HRE(神聖ローマ帝国)”化だし、現代の国民国家は解体に向かっている状況からすると、次にくるのが地域「帝国化」なんだそう。

混乱の極みにある中東はオスマン帝国化、アフリカのサヘルエリアはマリ王国化---とゆーよーな例を挙げ、そーすることで部族単位の共同体化を進め、自治権の委譲等をし、緩やかな連邦制ってどうよ---というふーな解決策の提案でした。

ふと、

思ったのがISの目指している最大版図(↓)。

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これって、アッバース朝の最大版図+αで、けっこう盛(も)ってます。

マリ王国についても資料集(帝国書院)の図版を見ると・・・・(↓)。

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自民族の「全盛期への思い」は、時代の違いこそあれ、最大版図の隆盛を極めた時代を「民族の記憶」として受け継いでいるものになりがちです。

そーすると各民族がそれぞれに「民族の記憶」をいーふーに解釈してしまわないか?
(サスガに今のニッポン人は大日本帝国臣民のように、こんなふーには考えないだろうけど・・・)。

時代の推移と共にそれぞれの帝国は栄枯盛衰を経ていくわけで、みんながみんな「いい時」を主張していたら、また揉めはしないんだろうか?

あっ、

だから今再び『文明の衝突』byハンチントン---を持ち出して文明圏で棲み分けを構想すればいいのか?

「中世化」については残り10分で駆け足説明。

ところが吃驚(゜∀゜)、8月29日付けの信毎文化欄(↓)。

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えっ、内田先生の講演要旨の見出しって、「信頼や友情がより価値を持つ」(赤線箇所)。

確かに、「中世化」に関してそう仰ったけどサ。

でもあたしゃ江戸時代(近世)に戻るのはイヤですよ。「中世2.0」かそれ以上のバージョンにでもならないと。

だって、住民ひとりひとりに与えられる身分や役割は、その人の資質とはかかわりなく、生まれ落ちたときからほぼ決められていたような社会で、地主か小作か、本家か分家か、長男か次男か、その出自によって、残りの人生すべての見通しがついてしまうという時代だったんですから(いや、平成の今もそれに類似した社会になってきているような・・・・・・?)。


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今日の南アルプス(↓11:00撮影)。

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今日のストームグラス(↓)。

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オ・マ・ケ(↓お客様からのいただきもの。→1は東京土産、ベルンのミルフィユ。→2は滋賀県土産、近江牛カレー)。ありがたいことでございます。

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日本円を表す円マーク(¥)と中国の人民元を表す表示の¥。

英語表記だと円(YEN)、元(YUAN)ですからその最初の文字に由来しているのはわかります。

日本円の由来に関しては、

-----------以下引用

有力なものとしては、以下の3つ。

【1】江戸時代まで様々な形があった貨幣をすべて「円形」に統一したため、その単位も「円」という名前になった。

【2】当時、香港の造幣局から機械を譲り受けて銀貨を製造していたが、モデルとなった香港銀貨に「圓(=円)」と表示してあり、それをまねて「円」にした。

【3】国際的に流通していた「メキシコ・ドル」が円形で、中国ではこれを「洋円」または「円銀」と呼んでいたため、その影響で日本でも「円」という名前が使われるようになった。 さらに、新しい貨幣の形を決める会議で、時の「大蔵省会計官掛」という立場にあった大隈重信が指を円形に丸め、「こうすれば誰でもお金とわかるではないか」と言って円形に反対していた人々を説得したというエピソードもあるのだとか。


----------引用終了

「取材協力:日本銀行」だそうですので、このうちのどれかか、その複合案でしょう。

中国は円形の銀貨を作るようになっったものの、円の正字である「圓(げん)」は画数が多いので、同じ読みの「元」を貨幣の総称と決めている---らしい。

で、

上記引用【2】に関して、「五代サマ」のご登場です。

-------------引用開始(長めです。強調BLOG主)

五代友厚が大隈重信と共に大阪で何をやったか。

それは造幣局の設立だ。

日本の近代貨幣制度、具体的には通貨単位「円」貨を作り上げたのは大隈重信である。

そして、彼の下で働いた五代友厚だった。

大隈重信は、会計官副知事と後に大蔵大輔として、徳川幕府時代の一〇進法ではない複雑な両・分・文の通貨制度、関東では金本位制と、関西では銀本位制(銀座)という状況を改める必要に迫られた。

通貨制度整備の陣頭指揮にあたったのが、大蔵省造幣頭となった、大隈の築地梁山泊での盟友・井上馨(2歳年上)であった。

当時、外国官権判事であった五代友厚は、長崎時代から深い付き合いのトーマス・グラバーの仲介で、香港造幣局で使われなくなっていたイギリスの造幣機械を6万両(6万ドル)で買い入れる契約を結んだ(1868年)。

この機械に刻印されていたのが中国で使われていた「圓(円)」という貨幣単位を示す漢字であり、これがそのまま明治日本の新しい貨幣単位となった。

五代友厚は造幣寮(後に造幣局)の大阪での建設が決定すると、辞職して実業界に飛び込んだ。

彼が実業の世界に入った1869年にまず作ったのが、金銀分析所であった。

五代は、この金銀分析所で明治新政府による新しい貨幣の製造に合わせて、これまでの金貨や銀貨を正貨、贋金を問わず全国から買い集め、その内容物を分析し、それぞれを融かし、純度の高い金属の塊(のべ棒)にして、造幣局に収めるという事業を行った。

これは五代の独占事業であり、巨利を得ることになった。

また、五代友厚は貴金属の確保を進めるために、既に見つかっていた全国の金・銀・銅の鉱山経営に自ら乗り出した。

それらの管理をするために、大阪に本部機能を持つ弘成館を設立した。

五代は日本の新しい通貨、円の原料を押さえてしまった。

これで巨万の富を得て、大阪での地歩を固めた。

ちなみに、五代の屋敷(大邸宅)があった場所は、大阪の中心地そのものの中之島で、現在は日本銀行大阪支店である。

『蕃書調所の研究』 副島隆彦他著(2016) 成甲書房刊 より

-------------引用終了

歴史を振り返ると、日本は中国から様々なものを学び、吸収してきました。

明治以降の近代化にあたって、「お金」という国家の基礎を茄子いやもとい、成すその造幣機械が「お古」で、その単位(円)も「流用」だったとは・・・・・・。

あまり知りたくない話でしょうね(日本マンセーの人たちには)。

それにしても、今も昔も・・・と思い至ることがあります。

プラットフォームを作った人は、丸儲け。

現在のパソコンやスマホのOSしかり、Amazonしかり、ネット通販での楽天しかり、そーゆーふーに儲かるように作り込んであるわけですけど、150年前のニッポンでも、それも国家の貨幣制度という究極のプラットフォームを作り上げた人は、巨万の富を築くことができたわけか。

こーゆーのは卑近な例でも、けっこうありますよ。「ここじゃぁ、こーなってる。」というムラ社会のしくみ、とか。


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今日の南アルプス(↓11:00撮影)。午後は天気、回復です。

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今日のストームグラス(↓)。

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KCコミックス『天上の虹』、昨年全23巻が完結しました。

足かけ32年で完結とのこと、里中先生、お疲れ様でした。

そーいえば私は何巻まで持っていたのかと、階下でゴソゴソと探してみると(↓)、

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1~13巻までありました。

第13巻の刊行は1993年。それ以来、ご無沙汰だったのです。

14巻~揃えようよと思って、あれこれ探してみると(とはいっても、Amazonで検索したり、ブックオフへ行ったりしてですけど・・・・。新刊書店のマンガコーナーではなかなか見つかりません(;。;))、20巻目ぐらいからは見当たるんですが、それ以前の10~19巻くらいになると、新刊の入手は困難で(もう廃刊)中古で出ているモノの値段も、「おいおい・・・・。」という足もとを見た価格設定。

で、

もたもたしていたら、昨年末(12月)に文庫版として編集されて、全11巻完結BOX入りが発売されました(↓)。

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赤棚の最上段に置いてあります(まだ、スリップ入りのままo(^-^))。

オマケがついていましたo(^-^)。

ここの掲示板は1年ごとに「地図」を貼り替えています。

昨日までは、陸軍陸地測量部等が発行した「飯田」の地形図を3枚貼ってありました。

が、

今日からタイトルの「北海道を中心とした日本全図」に差し替え(↓)。

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札幌を中心とした正距方位図法となっており、同心円が2本引かれています(↓)。

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同封されていたパンフレットには、次のような特徴が記されていました。

・札幌を中心とした正距方位図法で、日本のすべての範囲を図示。

・札幌からの距離と方位が正しく表現されている。

・北海道を図のほぼ中心に置き、方位を約100度回転させている。

・オホーツク海、千島、サハリン(樺太)の主要地名を記載(協力:北海道大学スラブ研究センター)。

・オホーツク海全域、千島全域、サハリンがひと目でわかる初めての地図。

なんだそう。

発行は2010年7月なので、北陸新幹線(~金沢駅まで)、九州新幹線(博多~新八代)、東北新幹線(八戸~新青森)はまだ描かれていません。

こーゆー逆転の発想による地図の掲示は、今回で2枚目。

前回2012年の掲示物「環日本海諸国図」は、平成6年に富山県(土木部 建設技術企画課)が作成したものでした。

こちら、参照。

この地図のインパクトは大きいものでした(゜д゜)。

それと比べると、二番煎じ的な印象を受けますけど、いやいやどうして、オホーツク海・サハリン・千島列島等、未開発エリアの位置関係が北海道からどう見えるのか、新鮮な発見があります。

サハリンの油田開発→パイプライン・サハリン2とか、ロシアの思惑を推し量るヒントにもなりそうです。

(太平洋戦争末期、ソ連の対日参戦によって、満州国ではタイヘンな経験をされた満蒙開拓の人々(日本人)がいました。一方、千島列島は当時、国後島~占守(シムシュ)島まで全部日本領でしたが、こちらもソ連軍が侵攻してきます。そして、択捉島と得撫(ウルップ)島との海峡まで達した時、前線のソ連軍指揮官は、クレムリンに「これより南下していいのか?」と打診するんですね(つまり、ここが樺太千島交換条約以前の「国境線」だったと認識している)。スターリンの判断は「南下せよ、そして北海道へ。」というものでした(北海道の北半分を占領するつもりだったんですね、留萌~釧路ライン以北を。8月15日の終戦を迎えた日以降も、北海道では日本軍VSソ連軍の戦闘が続いていました(゜д゜))。

先日、読んでいた新書で「世代力」という言葉を知りました。

-------------以下引用

日本は、世代力を考慮に入れた政策を立てるべきだと考える。

世代力というのは、各世代が蓄積した政治・経済・社会・文化の総合力を言う。

また世界ルールの変更を機敏に察知して、これを読み取りながら国策をリードできる能力を言う。

この世代力が強力な国家は、その世代がマジョリティだった時に最も栄えるのである。

日本の歴史を振り返れば、明治維新前後には、幕末の厳しさのなかで鍛えられた世代が三〇代を迎え、その世代力は最高に達した。

彼らは超大国イギリスと結びつくことで国難を突破していった。

反面、この時期東アジアの周辺諸国の世代力は下降線をたどっていた。

その後日本の世代力は、豊かさや制度の完備のなかで漸次低下していった。

そしてその力は、一九四〇年代で底辺を迎えた。

日本が一九三〇年代の厳しい国際環境を乗り切ることができなかったのは、この世代力の低下の結果である。

戦後は、再び厳しい環境下で鍛えられたものが一団となって「団塊の世代」を構成し、高い世代力を誇った。

彼らは、戦後の焼け跡から立ち上がり、高度成長を実現させた。二〇〇〇年代に入ると、こうした高いパワーをもった世代力は引退とともにその力を減じた。

高い世代力を誇る中国・韓国とは対照的に現在の日本の世代力は最低にある。

彼らは世界ルールも読み切れず、それを認識しても国策に反映させる力もない。

日本は少子高齢化が進み、人口減少という未曾有の事態を迎えている。若年層の貧困の解消など、少子化の対策を進めなければならないことは言うまでもない。

それとともに、教育制度の改革などを通じて世代力を養い、困難な状況を突破する力を養成する時期になっているのである。

『日本の迷走はいつから始まったのか』 小林英夫著(2011) 小学館101新書

-------------引用終了

本全体を通しては、幕末以降のニッポンは大事なところで誤った選択をし続け、それは今も続いているという「警鐘を鳴らしている書!?o(^-^)」なんですけど、終わりのほうで「世代力」という言葉が登場してきます。

安定した人財供給がなされ、その人々にバトンタッチされていく仕組みが、我がニッポンは社会の中にビルトインされているのだろうか?---という問いかけ。

2000年代に入ってからというもの、若い世代が二極分化しているように感じるのですね。

優秀なやつは飛び抜けてデキる反面、社会で包摂していくにはちょっと手のかかる層。

その中間あたりのフツー層が薄~~~~~くなっているという印象。

優秀層は「ニッポンを牽引していく!」という気概を持っているのかというと、そうでもなさそうだし、手のかかる層は半径数mでの生活で満足そうだし・・・・。

やっぱり、つまるところ「教育」ということになりそうです。


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今日の南アルプス(↓11:00撮影)。雨雲、東へ移動中。

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今日のストームグラス(↓)。

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ディスプレイ棚の配置転換をしたので、お役御免となったものがあります。

そのうちのひとつが、世界史の折尺。2mで2000年を学べるというスグレモノ(!?)

それを、同系色のアルフレックス机の上に置いてみました(↓)。

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日本語表記はありませんが、出来事等が時系列に並んでいるので、英語がある程度読めれば(+多少の世界史知識があれば)、引き伸ばして楽しむことができます(↓!?)。

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読んで楽しい『美人論』の井上章一氏が、『妄想かもしれれない日本の歴史』 (2011) 角川選書 の中で、大化改新の詔と養老律令の条文について触れていて、その指摘があーゆー系でオモシロイ。

自分が高校時代に受けた日本史の授業を思い浮かべてみるといいでしょう。

-------------以下引用、長いですぜ(強調BLOG主)。

歴史はうといという人でも、大化改新については、その名をおぼえておられよう。

中大兄皇子が中臣鎌足にささえられ、それまでの蘇我氏体制をくつがえした。

朝廷が中心となって、公地公民制にもとづく支配のしくみを、うちたてる。

律令制のさきがけとなるそんな改革が、六四五年にはじまったと、学校ではおしえられた。

しかし、そこに釆女のきまりがあったことは、教科書にのっていない。

多くの学習参考書も、ふれることをさけている。

釆女は、大和の王朝が、地方の領主たちからさしださせた若い娘たちのことをさす。

大化改新がうちだした詔(六四六年正月)には、こうある。

「凡そ釆女は郡少領以上の姉妹及び子女の形容端正なるものを貢げ」

おわかりだろうか。

改新政府は、地方領主に「形容端正」な「姉妹及び子女」をよこせと、言っている。

美人を朝廷へとどけなさいと、そう命じているのである。

穀物をおくれという指図があったことは、学校でもならったろう。

あるいは、労役や兵役へ、男たちがしばしばかりだされたことも。

しかし、きれいな女を朝廷があつめようとしたことについては、何もおそわらなかった。

学校教育では、この史実がかくされてきたと、言ってよい。

まあ、大化改新については、それがあったことをうたがう学者も、おおぜいいる。

中大兄皇子の大活躍を信じないむきも、すくなくない。

しかし、八世紀初頭に養老令のだされたことは、まちがいないとされてきた。

こちらに関するかぎり、その発令をあやしむ研究者は、いない。

そして、その養老令でも、釆女については、こうしるされていたのである。

「其れ釆女を貢ぐは、郡少領以上の姉妹及び女の形容端正なる者を、皆な中務省に申して奏聞せよ」

やはり、きれいな女を中央政府へよこせと、書いてある。

大和の王権は、美人あつめに、けっこう力をいれていた。

そのことは、否定のしようもない。

そして、その事実が、教育の場では隠蔽されてきたことも。

朝鮮人従軍慰安婦のことを、今日の学校教育では、おそわるようになっていると聞く。

釆女についても、きちんと生徒にはつたえてほしいものである。

大和の朝廷は、けっこう面喰いだったのだ、と。

「形容端正」な女をよこせ。

こういうあつかましい法規は、しかし西欧の法制史に、見いだせない。

ヨーロッパの王たちは、美人へのあからさまな欲望を、法の形ではしめしてこなかった。

キリスト教の道徳が、それをゆるさなかったためか。

まあ、王が美人をかきあつめることじたいは、西洋でもあったろう。

権力をもつものが助平心にはやるのは、世の常である。

ただ、その想いを法へ書きあらわすまでに、あちらの王たちはいたらなかった。

日本とヨーロッパには、そういうちがいがあったことも、気にとめてほしいところである。

中国の王宮も、美人あつめには力をいれてきた。

たとえば、後漢の役人も、そのため「洛陽の郷中に遣わ」されている。

そして、「姿色端麗にして法相に合する」釆女を、宮中へいれたと、『後漢書』にはある。

日本の釆女も、こういう中国のしくみをとりいれたのだろうと、とりあえずみなしうる。

しかし、後漢の法令に、そういう条文があったのかどうかは、わからない。

養老令などの手本になった唐令が、面喰いを標袴していたか否かも、不明である。

私は、たぶん唐令にも、「形容端正」な女をもとめる条文はあったと、考える。

しかし、そこに関しては、日本側であらたに書きそえた可能性も、ないではない。

もし「形容端正」が、大和王権のつけくわえた、日本だけの文句だったとしたら…。

日本人のひとりとして、すこしはずかしいなとも感じるが、読者はどう思われよう。

-------------引用終了

はい、読者の一人としても、そうだったとしたら少しばかりではなく、丸ごと全部恥ずかしいです。

で、

手元にあった山川出版社の『詳説日本史』と東京法令出版の『資料日本史』をぱらぱらとみてみました。

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『詳説日本史』では大化改新の詔を次のように載せています(↓)。

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確かに、ない!

いわんや養老律令をや(↓)。

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記述は、欄外の注という冷たい扱い。


じゃぁ、『資料日本史』はどうかというと・・・・・・(↓)。

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「おぉ~、あるじゃん! それもルビ付きで『かおきらぎらしきものをたてまつれ』とある!」

文面が古語なので、すぐ下に「通釈」として次のように現代語訳が記されている(↓)。

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あぁ、なんてわかりやすいのだろう。

『資料日本史』は大学受験者のための「史料」が中心なので載っているのかもしれないが、この「改新の詔」の出題頻度は【A】とも記されている。

ということは、受験を念頭に置いて授業をしている先生方にとって、「改新の詔」の内容は必ず扱っているといってよい。

気になるのはその内容の範囲であって、わざわざ「凡そ釆女は郡少領以上の姉妹及び子女の形容端正なるものを貢げ」という部分まで掲載した『資料日本史』編者のスタンス、何か意図があったのでしょうか?

編者の欄には4名の先生方のお名前があり、西沢先生、お久しぶりです(この時代の担当だったのかどうかは???ですけど)。

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日本史の授業を思い出したでしょうか? 今は資料集に載っているんです、「大和の朝廷は、けっこう面喰いだったのだって。

あーゆー系の方々は、こーゆー系のDNAなんですね、ニッポンって昔から。

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今日の南アルプス(↓11:00撮影)。今日も快晴。

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今日のストームグラス(↓)。なのに結晶はザックザク状態。

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昨日、大学いもをつくりました(↓)。

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フライパンでつくる「なんちゃって大学いも」なんですが、そこそこには、できました。

ちょうどできあがったときにお客様(おひとり)がおられたので、サービス。

こーゆーのもタイミングですね。

M木さんが読んでいて、「これ、読みました?」と聞かれ、

「あ~、気になってたのにスルーしちゃってました。」

タイトルの講義が書籍になったのは2011年。これです(↓)。

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『中国化する日本』 與那覇潤著(2011) 文藝春秋刊

既に文庫本化もされています。

「専門家の間ではもう常識なのに一般の歴史ファンにはなかなか広まっていかない新しい歴史像を、読者のみなさんにわかりやすくお届けすることを目的にしています。」

というとおり、「高校レベルの常識的な日本史の知識さえあれば十分」楽しむことができます。

印象的な、そして刺激的であり且つ挑発的な文が並んでいて、思わず「そーそー!(膝を叩く)」ということしきり(そこそこ知識があれば、心地よいんです)。

オモシロイ部分を引用しますね。

-----------------以下引用

宋という王朝は、唐までの中国とはまったく異なるシステムを導入した、文字通り「画期的」な王朝であり、さらにその宋で導入された社会のしくみが、中国でも、そして(日本以外の)全世界でも、現在に至るまで続いているとさえいえるのです。

(中略)

逆にいうと、「日本が唐までは中国に学んでいたのに、宋からはあまり学ばなかった」というのは、なんとなく自明視してしまってよいことではなく、それ自体が大事件なのです。

つまり、中国では宋という時代から「近世」に入り、はっきりいえばその後、中国社会の基本的な構造は、今日の人民共和国に至っても、ほとんどなにも変わっていない。

しかし、唐までは中国を意識的に模倣していたはずの日本は、なぜかこの宋朝以降の中国の「近世」については受け入れず、鎌倉から戦国に至る中世の動乱のあいだ延々とすったもんだした挙句に、江戸時代という中国とはまったく別の「近世」を迎えることになる。

そして、近代というのは「近世の後半期」ですから、中国では宋朝で作られた社会のしくみが今日まで続いているように、日本でも江戸時代のそれが現在まで続いてきた(いわば、長い江戸時代)。

ところが、今や様々な理由によって、その日本独自の「近世」である江戸時代のやり方が終焉を迎えた結果、日本社会がついに宋朝以降の「中国の近世」と同じような状態に移行--「中国化」しつつある、というのが、本書のタイトルの本当の意味になります。

(中略)

たとえていうと、こういう感じだと思います。

これまで近世日本はずっと世界標準にあえて与せず、独白規格のガラパゴス・ケータイ(幕藩体制)でやってきたのですが、どうも最近、動作も鈍いし調子がおかしい。

修理を依頼したところ、オペレーター(儒者)が「どうせならこの際、グローバル・スタンダード(近世中国)にあわせちゃった方が何かと便利ですよ」とかいうものだから、スマホに買い換えないまま無理やりケータイにアンドロイドやiOS(儒教)をインストールしたら、画面がバクってひとしきり暴走した後、動かなくなってしまった---。

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「今」が大きなカーブを曲がっているという自覚で見ると(カーブそのものの r=半径 が大きいため、日常でそれを感じることが少ないけど、数年前と「今」を比較したら、

「そういえば・・・・・・!」って思うこと、多いでしょ。

それがなんなのかというと、與那覇氏は「中国化」と称しているわけです。

示唆に富む文が多いのですが、私は次の文を以下の如く置き換えてみました。

「江戸時代的な日本社会の欠点はどこにあるか。それは正しい意味での「封建遺制」、すなわち自給自足的な思考によって社会のあり方を捉え、他人の得は自分の損と思い込んでしまう百姓根性にあるのではないか。」

自給自足的な思考 → 他から途絶しているために地域完結している世界観

社会のあり方 → 「ムラ」のヒエラルキー

他人の得は自分の損 → 「ヨソモノ」の成功はオモシロクナイ

百姓根性 → 二言目には「絆」を持ち出す五人組DNA


なるほど、そーゆーことだったのか!(池上彰ふう)


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今日の南アルプス(↓11:00撮影)。天候は午後にかけて回復に向かうとのこと。

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今日のストームグラス(↓)。

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結晶のアップ(↓)。

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先日、お客様から朴葉寿司をいただきました(↓)。ごちそうさまでした。

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