レバノンとフランスの合作、舞台はベイルート(かつては「中東のパリ」とも言われた都市。しかし、今は・・・・( ^.^)( -.-)( _ _))。
「判決、ふたつの希望」というレバノンの映画です(↓)(先週は、これも初めてタイの映画を見ました)。
場所は、例によって、塩尻・東座。
合木さんが前口上で、この映画の原題は“THE INSULT”で、直訳すると「侮辱」になってしまい、それでは日本では興行上わかりづらいだろうということで、配給会社が考えに考えた邦題が「判決、ふたつの希望」になったんだとか。
見終わってみると、そーゆーふーな「希望」を見いだすことができた---そんな映画でした。
さて、
映画のはじめにテロップが出ます。確か、次のような内容でした。
「この映画は監督と脚本家が描いた作品であり、レバノン政府の見解ではない。」
えっ、そんなにも【政治的】なのか、この映画は!?
と、一瞬考えます。
が、出だしはというと・・・・、
ベランダで水遣りをしていたら、その水が配水管に繋がっていないために垂れ流しで、下の道で工事中だった作業員にかかってしまう---ここから、始まります。
補修作業をしていた現場監督のヤーセル(パレスチナ難民)と、レバノン人のトニー(キリスト教系右派の熱心な支持者)が主人公です。
(以下、ネタバレあり!?)
ヤーセルにとって、
「シャロンに抹殺されていればな」---という言葉は、自分史にとっても、民族の歴史にとっても、決して許しがたいものでした。
そう、シャロンとは「レバノン侵攻」を指揮したイスラエルの政治家で、のちに首相になった人物です。
一方、トニーにとって、
1976年1月6日~21日、レバノンのダムールという自分の故郷で何が起こったのか? 当時、6歳だったトニーの自分史に刻まれたその凄惨な事件。レバノンの現代史において、この事件は、実は闇に葬られてしまっているという事実。それも含めて、今を、レバノンで生きていかなければならないという苦悩。
トニーは、冒頭からず~~っと何かに対して怒っている---そんな表情です。
この2人が、日本語訳では「クズ野郎」と侮辱(INSULT)したことで、それに対し「謝罪しろ」、いやそれは拒否するという姿勢であったために、ドンドンと本人たちの思い(謝罪さえしてくれば、それでいい)を超えて、国を二分する論争へと事件化していきます。
自分史の集合が自民族の歴史になり、それが国家と同一ならば幸せなことなのだろうけれど、歴史が重層的に、そして複雑かつ理不尽な出来事で埋め尽くされたものであったとしたら、何を自分のアイデンティティとすればいいのだろう?
民族の記憶が次代につなげるバトンだとしたら、自分にできることは何なのだろう?
平々凡々と毎日を送る自分にとっては、こーゆー機会でもなければ、そーゆーことにあまり頭を使わなかったことでしょう。
法廷劇とヒューマンドラマの要素に満ちた映画です。
とはいえ、ちゃんと「クスッ(^_^)!」という場面もあります。
例えば、
自動車修理工であるトニーが、「この部品は中国製の偽モンだ、ほらBOSCHの“S”が入ってねえだろ!」と言うシーンと、ヤーセルが「中国製の工具は使えない」と発言した時、「お前分かってるな」的にトニーがチラッと見る所、よろしゅうございます。
彼らはその点で「もの」や「仕事」についての価値判断(!?)が似ている気がします。
因みにレバノンの宗教事情はと言うと、外務省のウェブサイトには、
キリスト教(マロン派,ギリシャ正教,ギリシャ・カトリック,ローマ・カトリック,アルメニア正教),イスラム教(シーア派,スンニ派,ドルーズ派)等18宗派---とあります。
アジア経済研究所の報告書より(↓)、
(注)に記されていること(赤線部)は、私も知っていましたが、2018年の今でも、たぶん、そう。ホント、シンジラレナイデータです。
これに基づいて、レバノンの国民議会における宗派別の議席定員(割り当て)が決まっているのです。
映画に戻ると、判決後、廷内での主人公2人、各々の弁護人の表情がまさに「判決、ふたつの希望」のように見えるのでした。
最後に、レバノン出身のジアド・ドゥエイリ監督の言葉(↓)。
「うちは両親が弁護士と裁判官という法律一家なんだ。弁護士である母は、いわば法律のコンサルタントとして、いろんな意見をくれたよ。その分、選択肢が多くなり、どんな結末にするか、4カ月悩んだ。結果的には、有機的な結論に達することができたし、見終わった後に“希望”をもって劇場を出てもらえるはず。」
内容的にはミニシアター系ですが、いやいやどーして、けっこう日本中のシネコンでも上映中デス。
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今日の南アルプス(↓11:00撮影)。
今日のストームグラス(↓)。