liddell coffee house リデルコーヒーハウス

【大切なお知らせ】2022年1月2日から、 次のように店の方針を変更しています。「 3名様以上の人数でのご来店は、お断りしています。」 つまり1~2人で、ご来店ください---ということです(3人以上で座れるお席はございません(_ _))。実際のところ、今は90%くらいが「おひとり様」のお客様です。

タグ:洋画

レバノンとフランスの合作、舞台はベイルート(かつては「中東のパリ」とも言われた都市。しかし、今は・・・・( ^.^)( -.-)( _ _))。

「判決、ふたつの希望」というレバノンの映画です(↓)(先週は、これも初めてタイの映画を見ました)。

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場所は、例によって、塩尻・東座。

合木さんが前口上で、この映画の原題は“THE INSULT”で、直訳すると「侮辱」になってしまい、それでは日本では興行上わかりづらいだろうということで、配給会社が考えに考えた邦題が「判決、ふたつの希望」になったんだとか。

見終わってみると、そーゆーふーな「希望」を見いだすことができた---そんな映画でした。

さて、

映画のはじめにテロップが出ます。確か、次のような内容でした。

「この映画は監督と脚本家が描いた作品であり、レバノン政府の見解ではない。」

えっ、そんなにも【政治的】なのか、この映画は!?

と、一瞬考えます。

が、出だしはというと・・・・、

ベランダで水遣りをしていたら、その水が配水管に繋がっていないために垂れ流しで、下の道で工事中だった作業員にかかってしまう---ここから、始まります。

補修作業をしていた現場監督のヤーセル(パレスチナ難民)と、レバノン人のトニー(キリスト教系右派の熱心な支持者)が主人公です。

(以下、ネタバレあり!?)


















ヤーセルにとって、

「シャロンに抹殺されていればな」---という言葉は、自分史にとっても、民族の歴史にとっても、決して許しがたいものでした。

そう、シャロンとは「レバノン侵攻」を指揮したイスラエルの政治家で、のちに首相になった人物です。

一方、トニーにとって、

1976年1月6日~21日、レバノンのダムールという自分の故郷で何が起こったのか? 当時、6歳だったトニーの自分史に刻まれたその凄惨な事件。レバノンの現代史において、この事件は、実は闇に葬られてしまっているという事実。それも含めて、今を、レバノンで生きていかなければならないという苦悩。

トニーは、冒頭からず~~っと何かに対して怒っている---そんな表情です。

この2人が、日本語訳では「クズ野郎」と侮辱(INSULT)したことで、それに対し「謝罪しろ」、いやそれは拒否するという姿勢であったために、ドンドンと本人たちの思い(謝罪さえしてくれば、それでいい)を超えて、国を二分する論争へと事件化していきます。

自分史の集合が自民族の歴史になり、それが国家と同一ならば幸せなことなのだろうけれど、歴史が重層的に、そして複雑かつ理不尽な出来事で埋め尽くされたものであったとしたら、何を自分のアイデンティティとすればいいのだろう?

民族の記憶が次代につなげるバトンだとしたら、自分にできることは何なのだろう?

平々凡々と毎日を送る自分にとっては、こーゆー機会でもなければ、そーゆーことにあまり頭を使わなかったことでしょう。

法廷劇とヒューマンドラマの要素に満ちた映画です。

とはいえ、ちゃんと「クスッ(^_^)!」という場面もあります。

例えば、

自動車修理工であるトニーが、「この部品は中国製の偽モンだ、ほらBOSCHの“S”が入ってねえだろ!」と言うシーンと、ヤーセルが「中国製の工具は使えない」と発言した時、「お前分かってるな」的にトニーがチラッと見る所、よろしゅうございます。

彼らはその点で「もの」や「仕事」についての価値判断(!?)が似ている気がします。

因みにレバノンの宗教事情はと言うと、外務省のウェブサイトには、

キリスト教(マロン派,ギリシャ正教,ギリシャ・カトリック,ローマ・カトリック,アルメニア正教),イスラム教(シーア派,スンニ派,ドルーズ派)等18宗派---とあります。

アジア経済研究所の報告書より(↓)、

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(注)に記されていること(赤線部)は、私も知っていましたが、2018年の今でも、たぶん、そう。ホント、シンジラレナイデータです。

これに基づいて、レバノンの国民議会における宗派別の議席定員(割り当て)が決まっているのです。


映画に戻ると、判決後、廷内での主人公2人、各々の弁護人の表情がまさに「判決、ふたつの希望」のように見えるのでした。

最後に、レバノン出身のジアド・ドゥエイリ監督の言葉(↓)。

「うちは両親が弁護士と裁判官という法律一家なんだ。弁護士である母は、いわば法律のコンサルタントとして、いろんな意見をくれたよ。その分、選択肢が多くなり、どんな結末にするか、4カ月悩んだ。結果的には、有機的な結論に達することができたし、見終わった後に“希望”をもって劇場を出てもらえるはず。」

内容的にはミニシアター系ですが、いやいやどーして、けっこう日本中のシネコンでも上映中デス。


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今日の南アルプス(↓11:00撮影)。

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今日のストームグラス(↓)。

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それは、例えば

難民・移民問題、民族紛争、人種差別、宗教問題、熟年離婚、シングルファーザーの子育て、晩婚、自分探し、アンチエイジング、ストーカーなどなど・・・・。

邦題「はじめてのおもてなし」って、意訳しすぎでしょうに。

原題は、“WILLKOMMEN BEI DEN HARTMANNS/WELCOME TO GERMANY.”(ハートマン家へようこそ/ドイツへようこそ)。

2016年ドイツでの観客動員数が400万人超だそうですから、総人口比(ドイツは日本の2/3程度)でみると日本だったら大凡600万人くらいの人が観た---そんな映画です(大ヒット!)。wikiせんせいのこのへんを参照


「決めたわ。難民を一人、受け入れるの。」母の突然の発言から、ナイジェリア出身の青年、ディアロ君がこのハートマン家へやってきます。

父は医者、母は元校長、長男はコンサルティング会社勤務のシングルファーザー、長女は自分探しの末、30歳代で現在は医学部生---そんな裕福だけど、実は壊れかけている家族の再生物語でもあります。

EUでいちばん難民の受け入れをしているドイツの「今」を垣間見ることができます(意識の面でも、治安の側面からも)。

実は、この映画を観たとき、映画館内「一人貸し切り状態」でした(*゚д゚*)。

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人生で2度目です、こーゆー経験は(^_^)。

以前は・・・・・・・・・・、そう、「大誘拐 RAINBOW KIDS」(岡本喜八監督作品)の時。

(農地改革において山林地主は対象外とされ、紀伊半島では戦後もそれ以前からの「大地主」が残存---この時初めて知りました。)


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今日の南アルプス(↓11:00撮影)。夕方以降降水確率高し。

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今日のストームグラス(↓)。

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昨年観た映画「ダンケルク」。

観ている人もいきなり戦場に連れて行かれる+陸・海・空3つの時制で進行+CG一切無し

イギリス国民にとっては誰でも知っている民族の物語=ダンケルク撤退戦(ダイナモ作戦)を描いたものでした。

今回観た「ウィンストン・チャーチル」はそのダイナモ作戦を立案した英国政府+英国軍の様子について、チャーチルを主人公にした27日間の物語。

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ラストでチャーチルが演説するシーンや、地下鉄車内でロンドン市民が一斉に “never!” と唱えるシーンや、チャーチルを支える奥さん(クレメンティーン)や秘書(エリザベス)の存在、最初はチャーチルに懐疑的だった国王ジョージ6世が次第に彼を理解し、絆で結ばれていく様子等、観るものに訴える要素がたくさんあります。

で、

私がいちばん「へぇ~!」だったのが、

シビリアン・コントロールとは、こーゆーことなのか!

という点。

会議に登場する英国軍指導者は、みんな冷静に戦況を分析しながら政治家に進言し、分を弁えている。

むしろ政治家のほうが情緒的で感情にまかせた発言があったりして好対照です。

どーやら、私は戦前の日本軍が登場する映画やドラマで「軍指導者とはこーゆーものだ」と刷り込みされてきていたのかもしれません。

帷幄上奏とか統帥権干犯とか、「天皇の軍隊」には、そもそも政治によるコントロール不可能な回路がアチコチに張り巡らされていましたから。

だから、その時代をテーマにした日本映画では、やたらと軍関係者が会議の中でも喚いたり大きな声で威圧したりするシーンが多いように思います(たぶん実際がそーだったから、でしょう)。

(当時、既に英米間にはホットラインがあって、英国のその場所はチャーチル専用のトイレ。(*´∀`*)でした。)

(チャーチルがWWⅠで立案した「ガリポリの戦い」。これで連合軍が敗戦したこともあり、政敵が彼を批判する際には、この映画でも「ガリポリの失敗」として登場してきました。だからこそ「彼に英国の命運を預けてもいいのか?」という疑問が生じてくることも、尤ものことだったのでしょう。)


実は、「ダンケルク撤退戦(ダイナモ作戦)」に関して、昨年ひとつ見そびれた映画があって、それが「人生はシネマティック!」。もうどこでも上映してないんですよね('A`)。


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今日の南アルプス(↓11:00撮影)。

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今日のストームグラス(↓)。

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北欧の映画というと若い頃にベルイマンの難解な映画を見たこともあって、それからず~~っと疎遠。

最初は「秋のソナタ」でしたし、ビデオが普及してから「第七の封印」・「処女の泉」なんか見ても、その深遠な宗教的・哲学的思惟まで辿り着けず(きっと若かったからでしょう(_ _)。映画には自分にとって、見るべき【時=歳】があるということなのかもしれません。今見たとしても、私にゃ、わかるかどうか??)。

で、

塩尻・東座で「ヒトラーに屈しなかった国王」、アイシティシネマで「希望のかなた」を鑑賞。

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前者はノルウェー映画、後者はフィンランド映画。

同じ時期、松本盆地の端に位置する映画館で上映していたんですね。

前者は、WWⅡでナチス・ドイツがノルウェーに侵攻、降伏を迫られた国王・ホーコン7世の3日間を描いたもの。

知らないコトばかりでした。

エンドロールで「この映画は事実に基づいたフィクションである」---と記されていますが、ノルウェーでは国民の1/7が鑑賞したという事実からも、きっと、彼の国の国民にとっては、「王室の真実の物語」として受け止めたのでしょう。

ノルウェーの人口は470万人。1/7という比率を日本に当てはめてみると、1億2000万÷7=1700万人。

「!?」

近年の大ヒット映画「君の名は。」の観客動員数が約1900万人ですから、ほぼそれに比した数字。

もし、日本で太平洋戦争中の天皇を主人公にして、こーゆーふーな映画を作り、「君の名は。」くらいの大ヒットを記録できるだろうか(いや、ありえんナ)。

気になったことと言えば・・・・・、

邦題の「ヒトラーに屈しなかった国王」。

原題は“KING'S CHOICE”なんです。

タイトルを見ただけで「王様の決断」がどーだったのか、わかっちゃうじゃん。


後者「希望のかなた」のテーマは【難民問題】。

シリア・アレッポから紆余曲折を経て、主人公の青年がフィンランドのヘルシンキにやってきます。

入国管理局で難民認定を申請しますが、「否」。

理由が、「現在シリアでは、生存に著しい危害は確認されていない」というもの。

その通告を受けた日、難民収容施設のテレビニュースでは、「シリアの政府軍と反政府軍との間で戦闘があり、アレッポ市街が空爆されている」映像が流れています。

送還が決定したものの、主人公の青年・カーリドは不法滞在者として留まることを決意し、収容所を脱走。

そんな彼を、市井の名もなき人々(レストラン経営者とそこの従業員たち)が救いの手を差し伸べる---という展開。

ふと、

以前に読んだ「北欧ではどーして福祉政策がここまで手厚いのか?」---に対する理由のひとつを思い出しました。

確かそこには、「民族的同質性が高く、戦後においても意図的に移民や難民への壁を高くしてきた。」

英仏のように海外植民地を持っていなかった北欧諸国では、旧植民地からの移民は流入せず、難民にも門戸を閉ざすことで、民族的マジョリティがそのまま恩恵を享受できる福祉政策を採ってきた---というようなことが書かれていました。

現在はノルウェー以外の北欧諸国はEUに加盟しているので、「壁」は低くなってきているのかもしれませんが、この映画が公開されたのは昨年(2017)ですから、そーでもないのかも。

因みにこちらの映画のタイトルは“TOIVON TUOLLA PUOLEN”(フィンランド語)。

英語に訳すと“THE OTHER SIDE OF HOPE”。

邦題「希望のかなた」。

(2017年ベルリン国際映画祭銀熊賞受賞をはじめ、いろんな映画祭で各賞を受賞している作品)

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イオンシネマ松本が昨年できたことで、そして「高校生はいつでも1000円」という方針で上映しているため、松本シネマライツ8もそれに追従。ともに上映作品が重複しがちであるための対応策なのでしょう。

ところが、アイシティシネマは東筑摩郡山形村にあるため、「足」のない高校生にとってはアクセスが悪い。だからでしょうか、クルマで来場するオトナ向けの作品がちょっとだけ・少しだけ上映されているような気がします。勿論、シネマコンプレックスなので、ドラえもん作品も上映していますけど。

塩尻・東座は、合木こずえさんの「色」を出した自主路線。

こーゆーふーにそれぞれ特色のある映画館がある地域---羨ましいです。

あっ、そーそー、この2作品の上映は、ともに本日まで(_ _)。

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今日の南アルプス(↓11:00撮影)。午後は回復の予報。

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今日のストームグラス(↓)。

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オ・マ・ケ(↓)。一昨日、“ホワイト・デー”だったモンで(この効果はありませんね---断言)。

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シングルマザーの遺児(7歳女児)を育てる叔父(シングルマザーの弟)とその母(7歳女児からみると祖母)の「子育て」をめぐる物語(こんな括りでいいのか?)。

でも、

タイトルにある「ギフテッド(gifted)」=天賦の才能---が女児にはある(実は母親は世界的な天才数学者で、女児も「ギフテッド」という設定)。

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その才能を英才教育(=ギフテッド教育)の学校で育てようとする祖母v.s.「普通に育てたい」という女児の母である亡き姉の遺志を守る叔父。

親権をめぐる裁判となり、落としどころが「里親に出す」。

そこから先、ストーリーはさらに大展開(この先はネタバレになるので、略)。

ハートウォーミングないい映画でした。お薦めの1本。

観てから後、ネットで「ギフテッド教育」を「ポチッ!」とな。

wikiせんせいには、こゆーふーにあります。

この中に、モンテッソーリ教育方式と記されていて、吃驚。

佐藤優さんの本を読んでいたら出てきた教育方法で、アマゾンのJ・ベソスやグーグル創始者の2人とかがそーなんですよ---そーゆー話でした。

で、

再び「モンテッソーリ教育」をみてみると、モンテッソーリ教育を受けた著名人の欄に、彼の名前が加わっています(↓)。

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そう、将棋の藤井聡太君。

(それにしても、錚々たる名前が並んでいるな( ・_・;)。

私は、彼が高価な知育玩具を使っていたという話しか知りませんでしたけど、実は、そーだったんですね。


ここから先は、私の妄想です(なんせ、身近に「ギフテッド」の人がいないモンで)。

「ギフテッド」の人はその才能故、一個人としてみるとバランスがとれていない。社会性がないとか、協調性がないとか、こだわりが突き抜けているとか、フツーの人との会話が不成立とか・・・・・、まぁ、そーゆーふーな「近寄りがたいオーラ」付き。

つまり、突出した才能を有す代わりに、何かが足りない。

映画の中のメアリー(7歳女児)の母親が、「普通に育てたい」と思ったのも、その普通の集団の中にいればこそ、「足りないモノ」が何であり、どーすればいいのかという試行錯誤を通して身につけていく---と、考えたからなのかも?(天才数学者であったメアリーの母親も、その母(メアリーの祖母)によってギフテッド教育を受けていたと思われ、それによる自分の利害得失を経験していたからなのかも?)

小さい頃のそーゆー生活の中で“Gifted”が消えてしまったとしたら、そもそも、それは「天賦の才能」じゃなかったのではないか?

子育てでは、「遺伝半分、環境半分」とも申しますし、それをどう捉えて、どう育てていくのかは、本人の意志よりも周囲の思惑のほうがコトを左右するように思います。


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今日のストームグラス(↓11:00撮影)。昨日の雪も日陰にだけ残っていますが、アプローチ坂はクルマでも大丈夫です。

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今日の南アルプス(↓)。

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チケット購入窓口で、「あっ、そーそー」といって、「これ、どうぞ!」と渡されました(もらえるモノはもらっておこう(の精神なモンで)。(↓)。

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今はマッチ箱に入ったマッチを目にする機会もなくなりました(「火」はライターで点けるモノ---と思ってる子どももいるらしい---未確認)。

で、

そーそー、このマッチ。映画「パターソン」で貰えたんですね。裏面(↓)。

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主人公は、アメリカ・ニュージャージー州パターソン市に住んでいる「パターソン」さん(趣味は詩作で、職業はバスの運転手)。

ストーリーの途中に出てくるアメリカのマッチ、主人公はココの製品が気に入っているらしい(そのデザイン、ロゴ、レタリング等)。上のデザインもそれを踏襲。

とはいえ、このマッチがストーリー上の鍵になっているかというと、そーゆーふーでもなく・・・・・・。

映画は主人公とパートナー(奥さん)と愛犬との1週間が淡々と続いていくだけ。

そーです。

ヤマ無し、オチ無し、意味無し・・・・・、の「ヤオイ」映画なのか?

若しかしたら事件になるのかも・・・・・・、という伏線があったかと思うと、結局、ナニも起こらず・・・・って(期待しすぎです)。

私たちの日常も、結局、そーゆーこと多いし・・・・・。

ふと、

朝のJFNの番組「Oh! happy Morning」のアナ、井門さんがよく口にするこのフレーズ、

「当たり前の日常の中にこそ、幸せは詰まっている。」

を思い出した。

脚本・監督のJ・ジャームッシュの作品を見たのは、「ストレンジャー・ザン・パラダイス」、「ダウン・バイ・ロー」以来だと思う(実家の廊下にはなぜか今でも“STRANGER THAN PARADISE”のバカでかいモノクロームのポスターが貼ってあります(日焼けしている箇所多しo(^-^))。

単調な毎日が7日続いて1週間だと思ったら、それは大間違い(らしい)。

というのも、この映画「パターソン」のチラシ(の表)を見て、「ふっ!」と気がついた。ほら(↓)。

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朝、ベッドで目覚める場面でさえ、毎日、こんなにも「違う」ってことに。

そーそー、パターソン市出身の有名詩人にアレン・ギンズバーグがいます。(たぶん)中川村や飯島町に越してこられて現在住んでおられる方々、この映画好きになるんじゃないかなぁ?


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今日の南アルプス(↓11:00撮影)。

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今日のストームグラス(↓)。ピントが背景(_ _)。

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オ・マ・ケ1(↓)。今朝6:09の南アルプス。快晴無風。

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オ・マ・ケ・2(↓)。お客様からのいただき物(これでラズベリー・レアチーズケーキ作ってみましょう)。

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フランス北部・ベルギーとの国境の町、ダンケルク。

その地名が映画のタイトル「DUNKIRK(ダンケルク)」。

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イギリス国民にとっては「国民の記憶」としてみんな知っているという「ダンケルク撤退戦」を描いた映画。

ニッポン人の私にとっては遠い異国の戦争映画なんだけれど、WWⅡ中、ドイツ軍に包囲され、次第に港町・ダンケルクへ追い込まれる中、どーやって30万人以上ものイギリス兵やフランス兵ら連合国の兵士を、ドーバー海峡の向こう側(イギリス)へ救い出すのか?

その1点を、陸・海・空の立場から、それもそれぞれが3つの時制によって、ストーリーが進行していき、ラストはそれらがひとつの物語に収斂するという構成。

見るほうのリテラシーも問われます。

CGは一切無しの実写---駆逐艦の撃沈もそうでしょうから、それはそれは制作費かかってますね(CGで再現するほうが高くつく---という話も!?)。

私はリテラシーがないせいか(*)、見終えたあとにネットで確認作業( ^.^)( -.-)( _ _)(x_x)。

「あっ、そーゆーことだったのね!」と得心する有様です。

(時制を理解できなかったという点では、昨年のアニメ「君の名は。」もそう。確認するためにもう一度劇場へ足を運び、先日、ブルーレイで再々度確認しましたo(^-^)。)

今回の「ダンケルク」は岡崎で見たんだけど、もう一回、足を運ぶようなことはないナ。

*:映画の文法や作法を知らなすぎる---ということです(_ _)。


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今日の南アルプス(↓11:00撮影)。終日、雨の予報。

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今日のストームグラス(↓)。

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先日、「人間の値打ち」という映画を見てきました。

上映前に合木こずえさんが短い作品紹介をするんですが、

「この映画の原題は『人的資本』というかたいタイトルです。」

と、仰る。

保険関係の仕事をしている人であれば、【人的資本】と聞いて、

人的資本とは、将来得られるであろう収入を現在の価値に評価したもの。より簡単にいえば、その人の現在の価値。

と、その人の社会的属性等から、オカネに換算することでしょう。

そうなんですよね、保険分野では生命保険の死亡保障として、損害保険や傷害保険で、損害賠償にこの理論を用いる---そーゆー、身も蓋もないオカネの世界の言葉です。

見終わった森永卓郎さんや浜矩子さんは(↓)、

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こんなコメントを残しています(オカネじゃないでしょ!、って)。

私はというと、

「ディーノの場合」・「カルラの場合」・「セレーナの場合」と3つの流れで進むストーリー展開が、

「あれっ、これって【バンテージ・ポイント】と似てる?」---と、思い出していました。

それぞれのストーリーが最後には収斂していくというシナリオです。

ただ最後、金額の対比には、考えさせられました(x_x)。


オカネに絡む話になると、思い出すコピーがあります。

ず~~っと昔の、新潮文庫のコピー。

「想像力と数百円。」 by 糸井重里

で、

まったくストーリーとは関係ないトコで、目がいった場面がありまして・・・・、

ヴァレリア・ブルーニ・テデスキ(彼女の妹はサルコジ前仏大統領の夫人で元スーパーモデルのカーラ・ブルーニ
)が夫役のファブリツィオ・ジフーニにベッドで、バックでだっこされているシーン。

ファブリツィオ・ジフーニは、右手でランジェリーの上から胸を揉みしだきつつ、左手で彼女の左手を握って、それを自分の股間へと導く、その動き! イタリア男はサスガ!?---いやいや、そーじゃなくて、この場面は既に愛のなくなった夫婦のベッドシーンなのでした(_ _)。


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今日の南アルプス(↓11:00撮影)。

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今日のストームグラス(↓)。

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オ・マ・ケ(↓その1)。
お客様からのいただき物、蕗みそ。これで春の訪れを感じる食卓、多いのではないでしょうか?

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ごちそうさまです。

オ・マ・ケ(↓その2。三日坊主めくりカレンダー)。上のベッドシーンにかけて(^_^)。

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先日見てきた映画「沈黙」(M・スコセッシ監督作品)。

ストーリー上、「神の声」もスクリーンの中では聞こえてくるのですが、見終わって私が受けた印象は、

「神は存在しない」

ということでした。

どうしてだろう?---と深く考えることもなく、もやもやしていました(因みに私はキリスト教徒ではありません。もし、そうだったら、どーだったんだろう?)。

で、

前から読もう読もうと思っていた『サピエンス全史』を読んでいたときのこと、「あっ、こーゆーことなのね!」と得心。

長くなりますが、以下引用します。

-------------引用開始

近代国家にせよ、中世の教会組織にせよ、古代の都市にせよ、太古の部族にせよ、人間の大規模な協力体制は何であれ、人々の集合的想像の中にのみ存在する共通の神話に根差している。

教会組織は共通の宗教的神話に根差している。

たとえばカトリック教徒が、互いに面識がなくてもいっしょに信仰復興運動に乗り出したり、共同で出資して病院を建設したりできるのは、神の独り子が肉体を持った人間として生まれ、私たちの罪を贖うために、あえて十字架に架けられたと、みな信じているからだ。

国家は、共通の国民神話に根差している。

たとえばセルビア人が、互いに面識がなくても命を懸けてまで助け合うのは、セルビアという国民やセルビアという祖国、セルビアの国旗が象徴するものの存在を、みな信じているからだ。

司法制度は共通の法律神話に根差している。

互いに面識がなくても弁護士どうしが力を合わせて、赤の他人の弁護をできるのは、法と正義と人権--そして弁護料として支払われるお金--の存在を信じているからだ。

とはいえこれらのうち、人々が創作して語り合う物語の外に存在しているものは一つとしてない。

宇宙に神は一人もおらず、人類の共通の想像の中以外には、国民も、お金も、人権も、法律も、正義も存在しない。

「原始的な人々」は死者の霊や精霊の存在を信じ、満月の晩には毎度集まって焚火の周りでいっしょに踊り、それによって社会秩序を強固にしていることを、私たちは簡単に理解できる。

だが、現代の制度がそれとまったく同じ基盤に依って機能していることを、私たちは十分理解できていない。

企業の世界を例に取ろう。

現代のビジネスマンや法律家は、じつは強力な魔術師なのだ。

彼らと部族社会の呪術師との最大の違いは、現代の法律家のほうが、はるかに奇妙奇天烈な物語を語る点にある。

その格好の例がプジョーの伝説だろう。

『サピエンス全史』 ユヴァル・ノア・ハラリ著・柴田裕之訳(2016) 河出書房新社刊 より

-------------引用終了

「プジョーの伝説」というのは法人としての企業、プジョーを、われわれがどーゆー意味で存在していると言えるのか?---われわれサピエンスが本当に存在するものだけしか捉えられなかったら、国家や教会、法制度を作り上げることはできなかった---そのシンボルとしての譬えです。

下巻の帯で山形浩生氏が、「妄想力こそ人類の礎! 虚構の上に築かれた人間の壮大な文明の歴史を描ききる!」

とあるとおり、キーワードは「妄想力」。

そーいえば、以前のブログでも触れていましたネ。

『サピエンス全史』、例の棚へ置いてあります(今日から(^_^))(↓)。

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今日の南アルプス(↓11:00撮影)。

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今日のストームグラス(↓)。

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佐野元春の名曲、「SOMEDAY」の一節。

♪♪ 若すぎて なんだかわからなかったことが REAL に感じてしまうこの頃さ ♪♪

彼はこの曲を25歳の時に発表しています。

実は先日久しぶりに、自分が若かったときに見た映画を、(たぶん)20年以上の時を経て、再び見る機会がありました。

それはデジタルリマスターされて上映していた、これ(↓)。

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邦題「愛と哀しみのボレロ」、塩尻・東座で上映していました(あと、12/31に1回だけ上映予定)。

見終わって、感じたことが、「SOMEDAY」の一節だったのです。

それと、「バトンをつなぐ」とはどーゆーことだろうか?---ということ。

第二次世界大戦を挟み、世代を継いで繋がる4つの家族(ルドルフ・ヌレエフ、ヘルベルト・フォン・カラヤン、エディット・ピアフ、グレン・ミラーがモデル。但しカラヤンはず~っとカラヤンで(^_^))。

最後の15分間流れ続けるボレロの演奏とバレエ。

パリ・トロカテロ広場で開催された国際赤十字とユニセフのチャリティコンサート。

映画の内容は、それに出演した彼ら彼女らのファミリー・ヒストリー。

若い頃はこーゆーものにはあまり関心が無かったはずなのに、どーして私は見たんだろう? 見たけどわからないところばっかりだった---そんな印象しか残っておらず、見た後で話をしたけど、きっとトンチンカンだったんだろうと思う。


加齢による、ということか(見ていた年齢層は、私とほぼ同年代若しくはそれ以上でしたから。そーそー、東座の駐車場が満車だったんですもん! (゜∀゜))。


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今日の南アルプス(↓11:00撮影)。

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今日のストームグラス(↓)。

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