70年前の今日4月20日11時40分、「飯田の大火」が発生したんだそうです。
で、
その火元について、『飯田・上飯田の歴史・下』(飯田歴史研究所編集・飯田市教育委員会発行・2013年刊)に当地の延焼エリア図が載っておりまして(↓)、

先ほど、行ってきました(↓)。

そこは扇町公園になっていて、なぜか【D51】が展示(!?)されています。「火の用心」の看板を設置してあるのも、ここが火元故であるからなのでしょう。でも、そーゆー来歴を知らない通りすがりの観光客や一般人(私、とか)にとっては、【D51】とミスマッチ感があります。
先述の『飯田・上飯田の歴史・下』を読んでいて、不思議に思ったことがあります。
1947年といえば、当時はまだ “OCCUPIED JAPAN” の時代、戦後直後、これだけの大火の復興には、GHQが何らかの指示・指令を出していたハズなんです(で、実際にも、そう)。
ですが、どこをみてもGHQの文字がない(これは意図的に、ここの執筆担当者が触れなかったのか? もしかして、アメリカ様をキライだったのかも(^_^))。
以前、牧野市長が対談で話していた記事でも、飯田の紹介で触れていたのに・・・・・(確か「しんきん」関連の雑誌だったと思う)。
当地にラウンドアバウトがあること自体、日本の道路文化からして不自然だと思い、アレコレと調べたことがあります。で、行き着いたのはこの大火からの復興計画でした。
現・吾妻町ラウンドアバウトが作られたのは、このときだったんですね(2013年、東和町にもラウンドアバウトが誕生し、「丘の上」には2つあります)。
閑話休題。
「飯田の大火」のその焼失面積たるや・・・・・。こんなとき、本川さんのデータが頼りになります(↓)。
出典は「消防白書」からなので、同一基準での比較が可能だと思われます。南信州新聞では罹災面積を60万平米としていますが、こちらでは焼損面積としており、48万平米。基準が違うのか(若しくは、「盛って」いるのか)?
それにしても、阪神・淡路大震災における神戸市長田区のトータル面積に次ぐ、焼損面積の大きさ。
一地方都市が焼損したその市街地に占める比率たるや、8割と表現されていますから、大打撃であったことは確かでしょう(昨年末、糸魚川市の大火の映像を見た印象からすれば、それはそれは飯田市は「壊滅的」だったと想像できます)。
「丘の上」はそこから復興し、「今」がある---そーゆーふーに自負を抱いていても、なんらおかしくありません。いやむしろ、それ以前からの「富の蓄積」に因るのかもしれません(ねぇ、旦那衆)。
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今日の南アルプス(↓11:00撮影)。
今日のストームグラス(↓)。
