「吉祥寺はジャズの街」---その種を蒔き、育て、他店と切磋琢磨しながらいろんな業種の店舗を牽引してきた経営者が、故・野口伊織さんでした。
この本(↓)から中山康樹さんが彼について触れている箇所を引用してみましょう。
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その点、次に登場する野口伊織(50歳)は違う。
同じ吉祥寺商店連合会でも一目置かれている存在で、経営者のカガミとまで言われているらしい。
事実、ジャズ喫茶界から足を洗った野口伊織のその後の躍進ぶりはめざましく、今日では、なんと14軒もの店を経営、しかも出店先は、チマチマと吉祥寺だけにとどまらない。
さらにケーキ屋ありカフェ・バーありピアノ・バーありと、無節操ともいえるバラェティーの豊かさ。
まさに、「どうだ、まいったか」の連続攻撃である。
おまけにハンサムときては、"ジャズ・バカ2大将"ならずともジェラシーを禁じえない。
結婚を2度したことも、周囲の嫉妬心を煽り立てることになった。
しかし、いまではチェーン店オーナーとして大成、チャラチャラした生活を送っているこの野口伊織こそ、吉祥寺イコール・ジャズの街運動のリーダーシップを握っていた男なのである。
いまや伝説の、そして吉祥寺にジャズの灯をともしたジャズ喫茶、そう、あの『ファンキー』を作ったのが野口伊織だったのだ。
現在のC調きわまりない言動、さらにカフェ・バーに姿を変えた『ファンキー』からは想像もつかないだろうが、しかし吉祥寺ジャズ物語は、1959年、『ファンキー』の出現とともにその幕をパンバカパーンと開けたのである。
『吉祥寺JAZZ物語』 寺島靖国・大西米寛・野口伊織・中山康樹著(1993)日本テレビ放送網(株)刊 より
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この本の第1章を中山康樹さんが書かれていて、「メグ」の寺島靖国さん、「A&F」の大西米寛さんについて記した後、野口さんについて触れているところです。
この章のタイトルは、

吉祥寺のジャズ・バカ3大将

です。愛情を込めてそーゆーふーに表現されたのでしょう。
野口さんも「Funky」開業に至る(先代から受け継ぐ)経緯について、次のように記しています(第2章 「ファンキー」物語)。
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各階にそれぞれ世界の名器とされる一流のサウンド・システムを配置し、異なったサウンドを楽しんでもらうというのが基本の計画であった。
地下には以前の『ファンキー』から使用していたサウンド・システム。
1階にはJBLのD130と175DLHの2ウェイ。
これを自家製のホーンロードのかかった大きたバッフル板に組み込んだシステムである。
この1階のシステムは、部屋一面がスピーカーという感じで、スピーカーの横に出入口があり、部屋ぎりぎりいっぱいのスピーカー・ボックスの後ろに入って結線等の作業ができるようになっていた。
2階はボーカル専門のジャズ・バーである。
アルテックA7を、マッキントッシュの管球式アンプで鳴らしていた。
ずっと後になるが、地下は例のJBLパラゴンという超大型の素晴らしいシステムに変更した。
以前の熱気ムンムンの『ファンキー』と対照的に、クールでチョッピリおしゃれなジャズ喫茶の誕生である。
『前掲書』 より
-----------引用終了
野口さんが本格的に「ファンキー」をジャズ店舗化していったのが、1960年。
文中にも登場する「パラゴン」は、当時、日本での納入第2号だったという話もあります(未確認)。
この当時のものなのでしょうか、「ファンキー」の色違いのマッチが4種(↓)並んでいます。
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「背」に記されたお店の場所は(↓)、
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この当時の「ファンキー」を私は知りません(_ _)。
昭和53(1978)年に吉祥寺パルコの建設計画のため、移転を余儀なくされます。
野口さんの言葉を借りれば、
「それからしばらくの間、シリアス路線から足を洗って、『ファンキー』はBGMとしてジャズを流していた」そうで、平成5(1993)年から再び、パラゴンのサウンドシステムを復活させるようになります。
場所は、吉祥寺パルコの裏(というか北側)。
パラゴンを据え置いた瀟洒な「ファンキー」に私が伺ったのは、その頃でした。
現在も「ファンキー」は健在です(詳細は「野口伊織記念館」をご覧下さい)。
運営は、(株)麦(MUGI)が当たっているようです。